March 13, 2007

島田雅彦の「エトロフの恋」を読み終わり、これで彼の無限カノン3部作をすべて読んだ。生涯に渡る恋、というテーマはこれまでも数々の作品に取り上げられてきたが、僕の個人的な感想から言えば、それは幻想に過ぎない、と思う。実際のところ、僕にもそれに近い恋があった。二十代始めの恋は、こっぴどい裏切られ方をしたせいもあり、その後何年も人間不信に陥るハメになり、結局、吹っ切れるまで20年もの歳月を要した。今でも実を言うとホントに吹っ切れたのかどうかさほど自信がない。しかし、僕が恋しているのは恐らく、当時の彼女であり、今現在の彼女ではない。47歳になった彼女に今会ったとして、僕の恋が蘇るがどうかは定かではない。恐らく、軽い、あるいは深い失望を覚えるだけなのではないだろうか。何故なら、僕が対面するのは20年という取り戻せない時間だからである。結局、僕らが何故吹っ切れないかというと、それが過去という出来事で、現在対面していない出来事であり、対面出来ない出来事であるからだ。その対面出来ないという、恋を忘れられなくする要素を、島田は天皇制というものを使って作り上げた。天皇制について書くこと自体、ある意味タブーである。そのタブーを島田は巧みに利用して、ひとつの壮大な恋の物語を作り上げた。しかし、僕にはそれすら非現実のものとして感じられてしまう。どうしても自分の恋と照らし合わせてしまう。忘れないことは簡単だが、忘れることは難しい。こと恋に関して言うと、通常の理屈が逆転するのだ。僕自身、忘れることにどれだけ苦労したか。そこまでして忘れる必要があるのか。あるのである。何故なら、もうその恋は取り戻しようがないからだ。実は既にその恋は過去のものとなり、現実には、もう既に存在していない、架空のものとなってしまったからだ。僕が数年おきでもいい、彼女とコンタクトを取り続け、それでも恋心を失わないとすれば、それは過去ではなくて現在の話となる。しかし、僕はもう20年も彼女と会っていない。この無限カノンの主人公、カヲルもそうである。ただ、僕とカヲルの違いは、カヲルは一方的ではあるが、彼女に対してコンタクトを取り続けているという点である。人間はどうして恋をするとかくも執念深くなるものなのか。それはこれまで数々の作家により、数々の作品の中で取り上げられてきた。これは僕の個人的な体験からの意見だとは思うが、人間がそれ(恋)に固執するのは、それが既に過去のものであるから、現在は手が届かないものであるからではないか、と思うのは、いささか悲観的過ぎるのだろうか。

Posted by Sukeza at March 13, 2007 06:12 PM
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