偽センチメンタリズム

4月15日、日曜日。

結局のところ、勘違いしているかしていないかの違いしかない。人生の大半を勘違いしてきた。そして今、この歳になって勘違い出来なくなっている。もちろん、いい方に勘違いしているか悪い方に勘違いしているかという違いはあって、その意味ではどうやっても今は悪い方にしか勘違い出来なくなっているということだ。誰もが抱いているぐらいのコンプレックスはずっと抱えて生きてきたが、50代になってからはむしろそれがどんどんと膨らむ一方になってきた。そしてそれは、どこをどう転がしても自分は人並みではないのだ、というオブセッション、強迫観念を抱くまでになった。簡単に言うと、どこをどう見ても自分はリア充ではないのだ。というようなことが、「リア充」という言葉が出現して以来頭に貼りついている。なので、この奇矯なコンプレックスの増大はどうやらSNSと密接な関係があるようだ。SNSが僕を不幸にした。要するにSNSを通じて他者と自分を比較するようになってしまった。その癖、現在の自分の情報源はほぼSNS(ツイッター)である。なんとも皮肉なことだ。だからスマホのSIMも主だったSNSが使い放題になるLINEモバイルにした。フェイスブックなんて滅多に見ないのに。たまにフェイスブックを開くと誰かに見つかっている。例えばすっかり名前も顔も忘れていた高校のときの同級生とかに。それがまた、うっかり見つかってしまった指名手配犯みたいな気持ちになる。自分以外の同級生皆が恐ろしく幸せに見える。考えてみるとそういった鬱屈は、2000年にうつ病になったときからひっそりと、しかし徐々に確実に僕の心に巣食っていたのだった。

とはいうものの、自分がどの程度不幸なのかというと、それもまた漠然としていて実は何の根拠もない。例えば「JIN -仁ー」とかの大好きなドラマを見ている最中はこの上なく幸せだと思ったりもする。そんなわけだから幸せと不幸せの線引きも曖昧だ。充たされているのか充たされていないのか。そういう意味では振り返ってみると自分の30代のころは過剰に満たされていた、という気がするのである。なんだか嘘臭いぐらいに。だからもしかすると僕は他者と自分を比較しているのではなく、過去の自分と現在の自分を比較しているだけなのかもしれない。

どっちにしても充たされない気持ちがあって、それがなんだかニセモノっぽいセンチメンタリズムの妄想、つまり悲観になる。あらゆるものが手が届かないのではないかという気がする。一方で、同時にどこかにまっ、いいかみたいな気持ちもある。それはつまり、悲観と諦観の間を揺らめいていることだから、これはたぶん客観的に見ればよろしくない傾向なのだとは思う。いつまで経っても出口が見つからないのは、自分が考え想定する出口というもの自体が間違っている、あるいは想像上のものでしかないということなのかもしれない。

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今日も夢の続きが見たくて二度寝して10時43分起床。で、実際に最近の傾向として二度寝すると夢の続きが見られるのだ。それはともかく昨夜懐中電灯が壊れていることに気づいた。さらに、深夜になってデスクトップPCのDVDドライブが壊れた。一応メーカーのサポートに電話してみたら案の定外付けドライブを使った方が安いし現実的ということ。外付けのDVDドライブは持っている。そんなわけで今日は隣町のヤマダ電機に行って懐中電灯を買った。正確に言えば先日冷蔵庫を買ったときにもらった500円の割引券とポイントを使ったので一銭も払っておらず実質タダ。外付けのDVDドライブのUSBケーブルがあまりにも短いので、1mぐらいのUSBケーブルがついているUSBハブを買おうかどうしようか売場で物凄く迷った。ついでにブルーレイのドライブも欲しくなって迷った。だが今日のところは懐中電灯だけで我慢する。

今日は15日、隣組長になって初めての町内会費を集金する日。集金袋に貼ってある表の順番に9軒回る。最初に行った裏の家が留守で、それだけが残りどうしようかと思っていたら、6時過ぎに母のところに行こうかと思ったタイミングで裏の人がやってきて町内会費を持ってきてくれた。どの家に行っても一年大変ですねと言われるのだけれど、あれだけ隣組長の仕事に対して取り越し苦労していたので、集金に回るぐらいはどうってことはない。考えてみると、一日でこれだけ多くの近所の人と言葉を交わしたのは初めてかもしれない。そしてたぶんそれはそれほど悪いことじゃない。

明日はどっちだ?

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