みぞれ、村上春樹

9時前起床。6時間業務。今日はひとつレートを上げてみたら、この辺で普通に非正規労働した場合の時給で換算すると1週間分の上がり。まあそうそういつも上手く行くわけではない。大体、山形県の最低賃金も平均時給も安過ぎる。帰路、母の病院に寄る。今日の母は「困った」という言葉をひたすら繰り返し、溜息ばかり吐いていた。本人も物凄く気にしているのだけれど、ここ最近になって急に物忘れが酷くなったということで、医師の指示で来週の月曜にMRIを撮ることになった。帰り道、雨からみぞれに変わってびっくりする。いくら山形だからといって、もう4月も後半だというのに、雪が降るなんて。

帰宅して、ご飯を炊いている間に気がつくとコタツで2時間気絶していまい、夕飯が遅くなった。夜は相も変わらず煮詰まる。ここ数日、HやI泉さんに電話して夜を凌いでいたので、どうしても誰かに電話したくなってしまう。数年前の電話依存、電話病が復活しそう。だが、今の状況ではいつも長電話になる僕のこと、電話代を考えると経済的に無理だし、そもそもそうそう毎日電話出来る相手がまずいない。Skypeのアカウントでも公開しようかな、どうしようかな。昨夜深夜吸った2本を入れて、この日記を書いている今に至るまで、本日吸った煙草は8本。出来れば1日10本までで抑えたい。今日は業務中、3本だけに留めたのはまずまず。ただ、夜になって台所で3本吸ってしまった。いまさらながら思うに、煙草を1本吸うのって実に呆気ない。以前の、コーヒー=煙草という意識、連想からはどうやら脱したようで、それだけはいい傾向なのだが、煙草というのは1本吸うともう1本吸いたくなるものだ。

電話出来ないし、Facebookには近ごろ何も書くことがないし書く気も起きない。ましてや人の幸せな日常を読みたくもない。なので、ツイッターに本音を書くことが多くなった。電話の代わりの発散。こちらのアカウントは@anykindoflove。でも、暗いことしか書いてないよ。

どうも僕は本の読み方を忘れたというか、見失ってしまっているようだ。というのも、長い間アパートやマンションで一人暮らししているときは、PCは机に向かって、本を読むときはソファもしくはベッド、という具合に決まっていたので、実家に戻って来てから布団に寝ているのでまず寝床で本を読まなくなった。ソファは父の書斎にあるのだけれど、まだ寒い時期はだだっ広い書斎に暖房をつけて寝転がって本を読むのはなんかなかなか出来ないというか、今の経済観念からすると暖房代がもったいない気がして出来ない。しかしながら、身体に読書=ソファというのが染みついてしまっているので、茶の間のコタツや台所のテーブルで本を読む気にはどうしてもなれない。これが喫茶店やカフェなら話は別なのだが。大体この町には行きたくなるような喫茶店もカフェもないし。

そんなわけで、いまだに村上春樹の新作は買ってもいない。以前も書いたように読みたいのだけれど。僕は村上春樹の小説は全部リアルタイムで読んできたので、作家としての彼に対して基本的に否定的なスタンスではない。しかしながら、近年の村上作品は以前から書いているようにどうも評価出来ない。新作、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」に関してはネット上に既に書評・感想が溢れていて、事前にあらすじを読むのは興ざめなので仔細に読んではいないけれど、目につくのは「喪失」というキーワードだ。「喪失」というのは村上の作品には常にキーワードとして語られ続けているけれど、近年の村上作品に僕ががっかりしているのは、彼の小説に物語としてのカタルシスが喪失していることだ。なので、少なくとも僕にとって、村上春樹という作家は物語を読む作家というよりも、文章を楽しむ作家、という位置づけになっている。ただ、それだけでも読むに値するし評価にも値すると思うし、大したものだとも思う。如何せん、アマゾンの書評かなんかで、「分からないところが好きです」というような人が結構いるけれど、「分からない」ということはある意味伝わらないということであって、決してメリットにはならないと思う。「海辺のカフカ」は一見深そうな話だけれど読み終わって何も残らない話という印象を受けたし、酷評した「1Q84」は一見重要と思われるさまざまなファクターが最後までただ放り出されて宙に浮いたままで、伏線としての意味をなしていなかった。まあそんなことで、個人的には初期の作品の方が圧倒的に好きで、いまだにそれを追い求めているところはある。だからいまだに読みたいと思うのだけれど。

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