空気の味

夕刻、大宮駅の新幹線のホームに降り立つと、空気がまずいと思った。確かに、田舎の空気、山形の空気の方がずっといい味がした。

朝、トンカンというやかましい音がして目が覚める。何かと思ったら道を隔てた隣の家の屋根を直していた。そんなわけで8時過ぎ起床。午前中、ごく近場を散歩。田舎の町は駅もないところだけれど、その昔は城下町、そのせいなのかうちから徒歩2・3分のところに大きな寺が3つもある。その寺をひとつずつ回ってみた。

こうやってひとつひとつの寺を見て歩くと、寺で遊んだ子供のころを思い出す。大きな寺に思えるのは、それぞれが墓地を有しているからだと思う。最後に実家の真向かいの寺の墓地を歩いてくると、子供のころ遊んだ木々のほとんどが今はもうなくなっていることに寂しさを覚える。昼は今日は父も含めて3人で車で蕎麦を食べに行った。2つ隣の大石田という町の外れ、次年子(じねんご)という山間の集落にある、七兵衛そばというわりと有名な店。田舎によくある、農家の広い座敷を利用した店だが、この店の特徴は辛みのある大根の汁につゆを混ぜるということと、蕎麦が食べ放題というところ。

食べ放題とはいうものの、小食な僕らは僕が2杯、父と母の2人で3杯。ま、おいしかった。実家に戻ると少々ダルくなり、ソファで本を読んでいたのだがそのうち開け放した窓際に座り込んで放心してしまった。その間に同じ町内の叔母がやって来て、久々なので挨拶をしたが、父の姉である当年85歳の叔母は、今年半年近く入院したとは思えないほど元気そうに見えた。帰りの新幹線は、幸いにして隣の席には誰も座らなかった。こちらに戻ってきて思うのは、冒頭の空気もそうだが、やっぱり朝晩は山形の方が寒かったなということ。ま、当たり前だけれど。狭い部屋に戻ってきて、カメさんに3日ぶりの食事を与え、PCに向かっていると、どことなく不安感らしきものを覚えて心が少々ざわついた。というか、実家で放心しているときからずっと、何かしら虚しさを感じていた。それが敢えて何かと言うのは難しいけれど、強いて言うならば生きること自体の虚しさである。しかしながら、それに取り込まれてはいけないことも分かっている。生きるということに意味性を求めては恐らくいけないのだ。簡単に言えば、生きること自体に絶望するほど救いのないことはない。その辺は先ほどシャワーを浴びながらなんとか克服したところ。結局のところ、反骨精神というか、反発心のような力で跳ね返すしかない。跳ね返したら、力を抜いてリラックスすればよい。まあね、これでもう少し前向きになれればいいのだけれど。それにしても眠くなるのが早い。

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