祭りの終わり

9月16日、月曜日。

待ちくたびれた。もう誰かを待つのはやめよう。そもそも待つことが何よりも苦手なのに。当てにならない誰かを待つよりは、相場のポジションを持って上がるのか下がるのかを待つ方がずっとましだ。しかし、もしかしたら生きるということは何かを待つことなのかもしれないという疑念が頭のどこかにある。

誰かに期待するのもやめよう。期待するのは自分自身と鹿島アントラーズだけでいい。確かに自分自身に期待するのは勇気がいるし少々無謀な気がしないでもないが、いるのかどうかも怪しい(というか間違いなくいないだろう)神に期待するよりはましだ。

寂しいと思ったら切りがない。それこそうさぎのように死んでしまうのが落ちだ。人里離れた山奥に住んでいるか、それとも無人島にでも住んでいると思うことにしよう。北極圏か南極大陸でもいいが。ギニア高地でもいい。そう考えれば現状でもそれよりはかなりましなはずだ。それにしても今日たまたまYouTubeで連合赤軍のその後というドキュメンタリーを見たら、あの事件から47年経った今、当時の連合赤軍だった連中が今の僕よりも寂しくない人生を送っていることにショックを受けた。もっとも、彼らの年齢になるにはまだ10年ぐらいあるが。

たぶん今の僕はコミュニケーションに飢えているのだと思う。かつての電話病の現代版というか進化形というか。そうはいうものの今の僕は電話をかけられないという以前とは逆の意味での電話病であることは皮肉だ。なんだろうな、いわば死刑囚が文通をしたいと思うようなものなのかもしれない。そういえば中学生のころにフランス人の女の子とスウェーデンだかノルウェーだかの女の子と文通したことがある。当たり前だが返事が届くのに物凄く時間がかかる。今は何もかもが瞬時に届く。それに慣れきってしまったのだろう。たぶん待つことの意味も少しずつ変わっているのだ。ところでフランス人の子の名前は今でも覚えている。彼女の名前はChantal Dupuisだった。さっきググってみたら物凄い数のChantal Dupuisが出てきた。もしかしたらその中に昔僕が文通したChantalもいるのかもしれない。

特養の母の部屋にいるときに気分が悪くなったので45分ぐらいで切り上げて帰宅したら体調はさらに酷くなり、明日死んでも不思議ではないくらいになった。とはいうものの、晩年の父のように救急搬送されて点滴を受けるというほどのことでもない。熱があるわけでもなく、ただ気持ち悪くてだるいくらいでは救急車なんか呼べないし、以前病院の救急外来に行ったこともあるがうつ病による心因性のものでしょうと言われただけで、どうせ同じことを言われるに違いない。いずれにしろ、確かに明日死んでもおかしくないとは思ったが、同時にたぶん明日も自分は生きているだろうと思った。実際、夕飯を食べたら大分ましになった。また胃潰瘍寸前になっただけだろう。

祭りの最終日、夜遅くまで祭りの喧騒が聞こえた。遠くで山本リンダの「どうにも止まらない」が聞こえてきたときには何が行われているのかちょっと見に行きたいような気はしたが、どうせおばさんが腰を振っているのが関の山だろう。

気がつくと祭りの喧騒は止んで、町に静寂が戻っていた。11時を過ぎていた。涼しい夜だ。散歩がてらに歩いて煙草を買いに行こうと表に出たら小雨が降っていた。一瞬考えたが結局車でコンビニに行った。アメリカンスピリットライトを2箱買って店を出ると、駐車場の自分の車の隣に停まっているのは群馬ナンバーだった。ふと、話してみたいな、などと思った。助手席側にはハンガーで背広が吊るしてあった。なんだかそれもちょっと寂しい風景に思えた。

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