記憶

8月9日、金曜日。

母の顔が覚えられない。つまり今現在ジャストナウの母の顔が。5年前に母が特養に入ってから、死ぬほど体調が悪いとき以外は一日たりとも休まず、今日に至るまで毎日毎日母のところに面会に行っている。もしかするとあまりにも毎日会っているので、その間にほんのちょっと、少しずつ少しずつ年老いていく母の変容をすべて覚えられないということなのかもしれない。母の顔を思い出そうとすると、何故か自分が高校生のときに亡くなった祖母の顔が浮かんだりするのだ。そして、少し努力をして母の顔を思い出すと、それは特養に入る前の母、眼鏡をかけていたころの母だったりする。今日も1時間ばかり母のところにいて、ずっと母の顔を見ていた。今日こそはなんとかして今日の母の顔を覚えようとした。しかし帰宅すると、思い出す母の顔が一年前だったり、二年前だったりする。今現在のディテイルがどうしても覚えられないのだった。

考えてみれば人間の記憶なんていい加減なものだ。自分の最初の記憶は、うちの前の道に馬糞が落ちていたというものだが、この町に馬がいたという記憶はなく、牧場のようなものは最上川を渡ったところにしかないし、そこには恐らく牛はいるかもしれないが馬はいない。そもそも何故馬糞と認識したのかも定かではない。その次の記憶は幼稚園でおしっこを漏らしてスカートを穿かされたという記憶だ。うちは両親ともに教師だったこともあり、2歳のときから幼稚園に通ったので、そのころの記憶だ。たぶんこれは間違っていない。何故か幼稚園の窓から日が射しているのを覚えている。いずれにせよ、自分の記憶なんて実にスカスカなのだ。考えてみれば当たり前で60年生きて60年分の記憶があるとすれば、それを全部思い出すのに60年かかってしまうことになる。とすると、その思い出している60年間の記憶は……という具合にパラドックスになる。だから、すべてを覚えていることなど所詮無理だ。

つまり僕らの記憶というものは取捨選択されプライオリティによって選ばれている。それはいいのだが、それでは何故今朝見た夢の内容すら思い出せないのだろう? 数時間前に見た母の顔を克明に思い出せないのだろう? 単なる記憶力の低下、経年劣化という奴なのか。例えば弟の顔はすぐに思い出せるが、それが正確にいつごろの弟の顔かというと途端に怪しくなる。よくよく考えてみると、それが最後に会った一か月前の弟の顔とは限らないのだった。それは父の顔も同様で、僕が思い出す父の顔は晩年の父ではなく、もうちょっと微妙に若いときの父である。結局のところ、少なくとも人の顔の記憶というのは、いろんな時間軸の記憶がブレンドされて最大公約数的な記憶、つまり印象になっている。っぽい。

待てよ、そう言われてみればさっき風呂上がりに洗面所の鏡に映っていた自分の顔さえそれほど正確には覚えていないではないか……。

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今日もほとんど何もしていない。朝は固定電話が鳴って起こされた。シカトしているとそのうち切れたが、次に携帯にかかってきたので出ないわけにはいかなかった。病院から来週の母の入院の確認の電話だった。この、たかが数十分早く起こされたというだけで、なんだか少しばかり寝不足のような気がして、午後昼寝をしてしまった。そしてまたなんらかの夢を見たのだが、目を覚ましたときにはほぼ忘れていた。

それなりに相場のポジションを持ったが、落ち切るまで待てずに微益で利食ってしまった。しかしこれはしょうがない。米長期金利が上がっていたから。スキャルピングとしては切るしかなかった。

夜はベッドに横になって珍しく(つまり寝る前じゃないのにという意味で)本を読んだ。で、馳星周の小説なのに主人公が非情じゃないというだけでなんだかがっかりしてしまった。主人公が最初の殺人を犯すまでに100ページ以上かかるなんて。しかもその後震えて涙を流すなんて。想定外のセンチメンタリズム。

僕らは日々忘れている。いろんなものを。まあいい。すべてを忘れているわけじゃない。しかし、例えばひょんなときに、自分の人生とはほぼまったくかかわりのない中学の同級生(下の名前すら出てこない)の顔が浮かんだりするのは何故なんだ?

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