19.

 

 七時半ちょうどに菱川は現れた。

 僕が片手を上げると、笑みを浮かべながら小走りにやってきて、僕の顔を見ると、みるみる表情を曇らせた。

「いったいどうしたの?」

「後で話すよ」

 心配そうに覗き込む菱川に、こっち、と指差して歩道橋の方に向かった。

 

 ジャズ喫茶の狭い階段を上りながら、まさか今日もいるんじゃないだろうな、と例の坊主のことをふと思い出した。古ぼけた木のドアの前に立つと、ついてきた菱川が、へえ、渋いとこ知ってるじゃない、と言った。僕はドアを開けると、真っ先に坊主がいないか店内を見渡した。いないことを確認してほっとしていると、後ろから菱川が背中を突ついて、ねえ、ここ話しても大丈夫なの、と耳打ちしてきた。僕はチャーリー・ミンガスの弾き出す重低音に負けないように、彼女の耳元で、大丈夫だよ、と答えた。

 僕らは店の奥の、そこだけ引っ込んだ造りになっている一角のベンチシートに並んで座った。メニューを開きながら、ここはさ、パスタがうまいんだ、と僕は言った。菱川はペペロンチーノを、僕は明太子のスパゲティを頼んだ。お飲み物は、と尋ねるウェイトレスに、菱川はビール、と答えた。僕は寝ちまいそうだな、と思いながらも、一緒でいいや、とビールを頼んだ。

 ウェイトレスが退がると、菱川は心配そうに僕の顔を覗き込んで言った。

「どうしたの? ほんと」

「あんまり寝てないんだ」

「例の幽霊のせい?」

「まあ、そんなとこかな」

「まったく、アンタが幽霊みたいだよ」

 そう言って菱川は眉をひそめた。そこにビールが届いた。

「とにかく、乾杯」僕はグラスを持って言った。

「何に?」

 僕はちょっと考えると、未来に、と言った。菱川はくすりと笑うと、グラスを合わせた。

 

「ねえ」菱川はペペロンチーノを上手にフォークで巻きながら食べていた。「ホントに大丈夫なの?」

「オレってそんなにヘンか?」僕はさっさと先に食べ終わり、手持ち無沙汰に水を飲んでいた。寝不足のせいか、先程のビールでまた睡魔が襲ってきていた。それに滅茶苦茶に疲れていた。

「なんかげっそりと頬こけちゃってるし、目の下に隈作ってるし、どこか悪いんじゃないの?」

「いや、疲れてるだけだよ。それと寝不足と」

 菱川は皿をきれいに平らげると、水をひと口飲んで言った。

「ねえ、マジで何があったわけ?」

「いろいろ。ホントにいろいろなんだ」

 僕はそういうと煙草に火を点け、ついでに菱川がくわえた煙草にも火を点けてやった。皿を下げにやってきたウェイトレスに、菱川はビールの追加を頼んだ。それから僕の方を見て尋ねた。

「安川くんは? ビールのおかわり」

「オレはコーヒーにしとくよ。それでなくても今にも寝ちゃいそうなんだ」

 じゃ、それとコーヒー、とウェイトレスに告げると、菱川はテーブルに両肘をついて、ふうっと煙を吐き出すと、小首を傾げながら言った。

「最初から話してくれないかな? 分かりやすく。ダメ?」

 僕は宙に向かって煙を吐き出しながら、どうしたものかと考えた。アタマがなかなか働かない。どうもさっき飲んだビールがもう回ってきているようだった。誰かにすっかり話してしまいたい気分だった。それには菱川は格好の相手のように思われた。だが、話してしまうとテンコと僕の関係が煙のように消えてしまうのではないかという意味のない不安と、自分が現実だと思っていることが揺らいでしまうのではないかという不安もあった。疲れてるな、と僕はもう一度思った。とにかく疲れてる。

「たぶん、話しても信じてくれないよ」

 僕はそう投げやりに答えると、ベンチシートの背に身体を預けて、天井めがけて煙を吐いた。

「信じるから」

 菱川は僕の目を覗き込んで、真剣な表情で言った。僕は後ろにもたれていた姿勢を元に戻して、テーブルに頬杖をつくと、ありがと、と答えた。お待たせしました、という声が聞こえて、テーブルにビールとコーヒーが届いた。熱くて濃いコーヒーをひと口飲むと、ほんの少しだけ目が覚めた。僕は未来のことを考えた。ほんの先にある未来。それから、この一週間あまり、アタマの中から消え去っていた、僕を取り巻く社会とか両親とか友人とか世界といったものを考えた。そして、やっぱりこれは誰かに話しておくべきことなのだ、と思った。僕はビールに口をつけている菱川に向かって言った。

「前にさ、幽霊を見たって言ったよね?」

「例の、自殺した川島さんって子?」

「そう」

「それでどうだったの? 本山さんと会って。写真見たんでしょ」

「本人だった」

 菱川は肩をすくめてちょっとぞっとしたような表情を浮かべた。

「ホント言うとさ、単に見ただけじゃないんだよ」僕は菱川の目を見て言った。「なんて言うかさ、彼女は生きてるんだよ。人間なんだ」

 菱川は目を丸くして、一瞬、まるで気の触れた人間でも見ているような顔をした。その顔を見て、もしかしたら僕は本当に狂っているのかもしれないな、とちらっと思った。

「それって、死んでなかったってこと?」

「いや、死んでる」

 菱川は頭を抱えた。それから顔を起こしてビールをぐいっと飲むと、こちらをきっと睨んで言った。

「もう何言ってるんだか全然わかんない」

「だから言ったろ、信じてくれないって」

 僕がそう言うと、菱川は口を尖らせて、だって、と言いかけたが、そこで思い直したかのように、ごめん、と消え入るような声で言って、しゅんとした顔になった。

 巨大なスピーカーから流れる音楽が、ビル・エバンスとジム・ホールの「アンダーカレント」に変わった。僕は水面に顔だけ出して浮かんでいる女性を水の中から写したアルバムジャケットを思い出した。水の中に両手を伸ばしてゆらゆらと浮かんでいるように見えるその写真は、僕にはどこから見ても溺死体を表現しているものとしか見えなかった。以前誰かと、たぶん宮本あたりと、あれは水死体を表しているのか否か、という議論をしたことを思い出した。それはモノクロの美しいジャケットで、見るものによっては死んでいるようにも見えて、また違う人が見れば生きているようにも見える。まるで今自分が話していることのようだ、と僕は思った。

 僕はゆっくりと少しずつ話し始めた。テンコがドアチャイムを鳴らして部屋に現れたところから。菱川はビールを飲んでは煙草を吸いながら、それでも一度も口を挟まずに黙って話を聞いていた。さすがにテンコとのセックスまでは話せなかった。そこまで話すと到底僕の正気は信じてもらえないと思った。僕の話が昨日の晩で終わると、菱川は深い溜息をついた。

 しばらく僕らは無言で煙草を吸った。先に僕が口を開いた。

「なあ、オレは狂っているのかな?」

 菱川は紫煙を宙にゆっくりと吐き出しながらちょっと切なげな目をして言った。

「分からない。でも」そこで菱川は僕の方を向いた。ビールでほんのり赤くなっている顔が何故か泣き顔のように見えた。「あなたは恋してるのね」

 僕は黙っていた。菱川の僕に対する気持ちが分かっているだけに。菱川は短い溜息をつくと、「幽霊が相手じゃ勝ち目ないわね」と言って、自嘲気味に笑みを浮かべた。それからビールをぐいと飲んで、煙草に火を点けながら、僕を真っ直ぐに見据えて言った。

「でも、安川くんは間違っていると思う」

 僕は思いのほか強い語調に戸惑いながら、「何が?」と問い返した。

「例えばその、アサコさんのことにしたって、あなたは何も悪くない。アサコさんが前にあなたにしたことの方がよっぽど酷いよ。アサコさんは、安川くんにとっていい女の人じゃなかったんだよ」

「そうかな」

「そうよ。それに、安川くんはその、ヘンな占い師に言われたことで勘違いしてる。全てがこの一週間で起こったように思ってる。でもね、少なくともわたしは、最初からあなたのこと好きだったよ」

 菱川の目は潤んでいるようにも見えた。僕はなんと言っていいものか分からず、ただ「ごめん」とだけ言った。

「それに、あなたの言っていることが全部本当だとして、それでもやっぱり川島さんはもう死んでいるのよ。あなたはまだ生きてる。あなたは人間なのよ。わたしと同じ」

 菱川の頬を涙が伝った。菱川は両手に顔を埋めて、肩を震わせて泣いた。僕は「菱川」と声をかけると、その背中に右手を置いた。アタマの隅で、ああ、また泣かせちまった、と思った。この一週間というもの、僕はどれだけの泣き顔を見たのだろう。いったい僕は何をしているのだろう? 

 菱川は目を擦りながら顔を上げると、「ごめん」と言って、照れくさそうに弱々しく笑った。僕はウェイトレスを呼ぶと、ビールを二つ頼んだ。途方もなく疲れていて眠かったが、もう酔っ払ってしまいたかった。

 僕らは新たに届いたビールに口をつけると、しばらく無言で煙草を吸った。

 僕が先に口を開いた。

「なあ、菱川は悪霊だと思う?」

 菱川はビールでほんのりと赤らんだ顔をぼんやりと正面の壁に向けたまま、こちらを向かずに答えた。

「分からない。でも安川くんが心配」

 僕は煙をゆっくりと吐き出しながら、瞼が重くなるのをこらえていた。ビールをもうひと口飲んだ。自分が酔っ払ってきているのが分かった。元々僕はアルコールは極端に弱かった。

「悪霊っていったいなんだろう? オレにはテンコが悪いものだとどうしても思えない。人間にだって悪い奴は一杯いる。結局、霊がいいものだ悪いものだと言っているのは人間の方じゃないか」

「あなたはホントに彼女のことが好きなのね」菱川は寂しそうな目をして言った。「わたしはホントにあなたのことが心配なのよ」

「ごめん」僕はまたビールを呷った。視界が少しぐらりと揺らいだ。前方の暗がりに坊主の姿が見えたような気がしてぞっとした。

「ねえ、安川くん」突然菱川は僕の顔を覗き込んで言った。「あなた全部話してないでしょ」

 菱川の泣きそうな顔が少しぼやけた。僕は目を瞑った。菱川は僕の腕をつかむと、それを揺すりながら言った。

「ねえ、何考えてるの? ねえ、安川くん」

 菱川の声が次第に遠ざかって行った。

 

20.

 

 安川くんの言ってたお坊さんて、あの人?

 菱川が言った。彼女の指差す方を見ると、前に見たのと同じ席で、例の坊主がこちらを見ていた。僕が恐怖に目を見開くと、坊主はにやりと笑って、それから目を閉じると何やら口の中でぶつぶつ唱えながら、右手の指で印を切るのが見えた。僕は、止めろ、と叫んだ。坊主は止めなかった。口がいつまでも動き、指は力強く印を切り続けた。僕はもう一度、止めろ、と叫んだ。マイケル・ブレッカーがそれをさえぎるように大音響でテナーサックスをブロウした。僕は立ち上がって坊主を止めようとしたが、身体が全く動かなかった。気がつくと涙が頬を伝っていた。止めてくれ、と僕は懇願した。お願いだから止めてくれ。菱川助けてくれ。僕は隣の菱川を見た。菱川は泣いていた。泣きながら、もう死んでるのよ、と言った。

 

「安川くん、着いたわよ」

 菱川の声が聞こえた。僕は肩を揺すられて目が覚めた。気がつくと、タクシーの中だった。窓の外を見ると、ちょうどマンションの前だった。横を見ると、菱川の顔があった。

「オレ、寝ちゃったのか?」

「もう、今度はちゃんとおごってよ」菱川は半分泣き顔のような笑顔を浮かべて言った。それから心配そうに僕の顔を覗き込んで言った。「大丈夫? 上まで送ってこうか?」

 僕は開いたドアから外に一歩踏み出すと、「大丈夫、ひとりで帰れるよ」と言った。

「はい、鞄」菱川はよろけながら外に立った僕に鞄を押し付けた。それからドアから身を乗り出すと、鞄を持つ僕の手を握り締めて言った。「ねえ、ホントに何かあったら教えてよ。絶対だよ。無茶したらダメだよ」

 僕はかろうじて笑顔を作ると、「分かった。ありがとう」と答えた。タクシーの自動ドアがばたんと閉じて、菱川は心配そうに窓に顔を寄せると、半分開いた窓から「絶対だよ」ともう一度言った。

 僕は走り去って行くタクシーを見守りながら、ごめん、と心の中で呟いた。

 

 睡眠不足と疲れとアルコールは、階段を上る僕の足に足枷でもつけているようだった。手すりにつかまりながらようやっとのことで二階の廊下に辿り着くと、ドアの前にテンコがしゃがんでいた。僕ははっとして腕時計を見た。十二時になろうとしていた。ふらふらとドアの前に辿り着くと、テンコが泣いていることに気づいた。

「ごめん」

 僕は自分がなんで謝っているのかよく分からなかった。これじゃあまるで帰りの遅くなった亭主みたいだ、と思いながら、テンコの両肩をつかんで立ち上がらせると、唇に軽くキスをした。黙っているテンコの華奢な背中に腕を回して抱き締めた。そしてもう一度、ごめん、と言った。

 鍵を開けてテンコの肩を抱くようにして部屋に入ると、電気のスイッチを入れた。靴を脱ぐ足元がちょっとよろけた。

「大丈夫?」テンコがようやく声を発した。

 僕は、大丈夫、大丈夫、と言いながら上着とネクタイを脱いで放り投げると、そのままよろけながら寝室まで行ってベッドに倒れ込んだ。

 テンコは走り寄ってきて、ベッドの脇にひざまずくと、心配そうに僕の顔を覗き込んだ。

「ねえ、酔っ払ってるの?」

「ちょっとだけね。それに、ちょっとだけ疲れてる」

 僕は大の字に寝転がったまま答えた。首を横に向けてテンコの顔を見ると、まだ泣き顔だった。

「それよりテンコ、どうして泣いてるの?」

 テンコはそれには答えずに、僕に覆い被さると、唇を重ねて舌を入れてきた。長いキスが終わると、僕はもう一度尋ねた。

「どうして泣いてるの?」

「もう会えなくなるような気がする」

 そう言うと、テンコの頬を涙が一筋こぼれ落ちた。

「どうして?」

「そんな気がする」

 僕はテンコの顔を抱き寄せると、髪にキスをして言った。

「大丈夫だ。オレはここにいるよ」

 テンコは答えずに、皺くちゃになった僕のワイシャツの襟元を開けると、首筋や肩に何度もキスをした。僕はその髪を撫でながら、ぼんやりと天井を見ていた。それから訊いた。

「ねえ、テンコの誕生日っていつ?」

 テンコはベッドの脇のワゴンに置いてある目覚まし時計を見て、十二時を過ぎていることを確認してから答えた。

「明後日」

「そうか、明後日か」

 明後日。僕は心の中でもう一度繰り返した。

「テンコ、しよう」

 僕がそう言うと、テンコは顔を上げて、激しくかぶりを振って言った。

「ダメだよ、スグル、死んじゃうよ」

「大丈夫だよ。しよう」

 僕はもう一度言うと、テンコを抱き寄せて僕の上に跨らせ、ミニスカートをたくし上げてショーツを引きずり下ろした。それから固く勃起したペニスを、濡れたテンコの中に挿入した。テンコは、死んじゃうよ、と繰り返しながら、喘ぎ声を洩らした。僕は腰を突き上げながら、ノースリーブのTシャツの下から手を入れて、テンコの汗ばんだ形のいい乳房を揉みしだいた。テンコはいつまでも、死んじゃうよ、と繰り返しながら、喘ぎ声を上げ続けた。

 

21.

 

 ドアチャイムの音で目が覚めた。

 起き上がると、身体中がぎしぎしと音を立てるようだった。頭痛がして、まるで全身に乳酸が溜まっているような気がした。もう一度チャイムが鳴った。はい、どなたですか、とベッドから叫ぶと、ドアの向こうから、宅急便です、という声が聞こえた。

 自分を見下ろすと、上半身ははだけたワイシャツのままで、下は裸だった。ベッドの脇に脱ぎ捨ててあったスラックスを拾って穿くと、よろよろと玄関先まで行って、ドアを開けた。

 日焼けした中年の男が、はい、とダンボールの箱を差し出して、伝票にサインをお願いします、と言った。僕はそれを受け取って彼の差し出すボールペンでサインをすると、ごくろうさまでした、と言って伝票とボールペンを渡した。

 床に置いたダンボールを見ると、発送人は母だった。米、と書いてあった。僕は開けてみようかと一瞬思ったが、結局開けずにキッチンの隅に置いた。

 昨日からどれだけ汗を吸ったか分からないワイシャツとアンダーシャツを脱ぐと、乱暴にスラックスも脱ぎ捨てて素っ裸になり、風呂場に行ってシャワーを浴びた。

 汗を流すと、大分気分はマシになった。悪くない、と僕は思った。悪くない。

 時計を見ると、十一時半だった。今日は休みを取ろう。会社に電話を入れようと受話器を取り上げようとすると、留守電のメッセージランプが点滅していた。再生ボタンを押すと、母の声が聞こえた。

―― えー、お米送っておきました。タマには自分で作って、ちゃんと栄養とってください。終わり。

 終わり、か。思わず笑みが浮かんだ。改めて受話器を取り上げると、会社に電話を入れて、今日休みます、と告げた。分かりました、という香取さんの無愛想な答えが返ってきた。どうやら今日は機嫌の悪い日のようだ。受話器を下ろして、これでよし、と独り言を呟くと、いつものようにコーヒーとトーストの朝食を作り始めた。

 

 外はむっとするほど暑かった。

 表参道で銀座線に乗り換えて、赤坂見附で降りた。時計を見ると、三時まではまだ十分に時間があった。本を読みながらサブウェイで昼食をとり、時間をつぶした。

 急な坂道を降りて、またそれを上ったところに目当てのレコード会社はあった。自動ドアを入り、受付の女性に宣伝の相原さんをお願いします、と告げた。お約束ですか、と訊かれ、はい、と答えると、こちらにご記入ください、と訪問者帳を出されたので、それに記入した。「貴社名」というところには、ちょっと考えて、何も書かずに置いた。受付嬢はそれを見ながら内線をかけ、受話器を置くと、あちらのロビーでお待ち下さい、と左手を指差した。僕は壁に貼られたさまざまなアーティストのポスターを横目に見ながら、指差された方に歩いて行くと、だだっ広いロビーに入った。ロビーの中には点々とテーブルが置かれ、僕はそのうちの空いているテーブルに座って、相原が来るのを待った。

 煙草を吸いながらぼうっと辺りを見渡すと、いくつかのテーブルでラフな格好のいかにも業界人という人間たちが打ち合わせをしていた。隅の方では取材か何かだろうか、派手な格好をした、どこかで見たことのある若い女の子が、ポーズをつけて写真を撮られていた。何もかもが活気に満ち溢れているように見えた。僕はごみごみとした自分の会社と、無気力な坂崎や小森の顔を思い出し、えらい違いだなあと思った。そして、アサコもこういう世界にいるのだな、とふと思った。

 煙草を灰皿で揉み消していると、「安川さんですか?」という声が聞こえた。

 見上げると、ジーンズにポロシャツという格好の若い男が、システム手帳と資料の束を持って爽やかな笑みを浮かべて立っていた。僕が「はい」と答えると、男は「相原です。お待たせしました」と答えた。僕は相原のいかにも業界人という格好を見て少々気後れを感じた。いつもの癖でネクタイを締めてスーツを着てきてしまったが、もっとラフな格好にすればよかったな、と思った。

 相原は、本山さんの写真とは違って、ウェーブをかけた茶髪になっていた。切れ長の目に鼻筋の通った顔はやっぱりビジュアル系だな、と思った。それに思ったよりも若く見えた。考えてみれば僕よりひとつかふたつ年下なので当たり前だ。その茶髪の前髪をかきあげながら、相原は「部屋を取ってありますので、こちらにどうぞ」と先に立って歩き始めた。僕は立ち上がってその後をついて行きながら、やっぱり全然似てないじゃないか、と思っていた。

 途中で書類をいくつか抱えた垢抜けた女の子が通りかかって、相原と微笑みながらなにごとか言葉を交わしていた。気のせいか女の子の顔は上気しているように見えた。僕は立ち止まってその様子をぼうっと見ながら、こいつはモテるんだろうな、とぼんやり思った。

 相原はロビーの片隅にある、試聴室と思われる部屋に僕を案内した。扉は防音になっているのか、やたらと分厚い扉になっていた。中には六人がけのテーブルと椅子と、オーディオセットが一通りと、アップライトのピアノが置いてあった。

 相原はテーブルの真ん中の椅子を指で示し、どうぞと言って、自分は反対側の椅子に座った。僕が腰を下ろすと、先程の女の子が失礼します、と言って入ってきて、アイスコーヒーをふたつ、テーブルの上に置いた。女の子が分厚い扉を閉めて出て行くと、中は防音室らしい息苦しいような静寂に包まれた。

 僕は無性に煙草が吸いたくなった。「ここって禁煙ですか?」と訊くと、相原は「あ、平気です」と言って、部屋の片隅からアルミの灰皿を持ってきてテーブルの上に置いた。僕はほっとして煙草に火を点けると、ふうとひとつ煙を吐き出した。

 相原はシステム手帳を開くと、遅くなりました、と言って名刺を差し出した。僕はそれを受け取ると、先日作ったフリーライターの肩書きの名刺を差し出した。

 相原はアイスコーヒーをひと口すすると、僕の名刺を手にして例の爽やかな笑みを浮かべて言った。

「それで、どのアーティストの取材ですか?」

 僕は相原のどこから見ても今風で自信たっぷりの笑顔を見ながら、こいつのためにテンコが死んだのか、とぼんやりと考えていた。

 あの、ともう一度相原は僕に声をかけた。僕はようやく我に返った。煙草を一度深く吸い込んで吐き出すと、僕は腹を据えた。

「亡くなった川島さんのことです」

「えっ?」

 相原は呆気に取られた顔をした。

「だから、亡くなった川島さんのことです」

 相原はせわしなく目を泳がせると、自分も煙草に火を点けながら言った。

「それってその、学生時代の」

「そうです」

「失礼ですが、彼女とはどういった御関係で」相原は不審の色もあらわにして言った。

「友人です、ただの」

 僕がそう答えると、相原はほっとしたようだった。先程よりリラックスした様子が目に取れた。煙草を灰皿にとんとんと叩くと、前髪をかきあげながら言った。

「それでしたら、僕はただの先輩後輩の間柄で」

 僕はちょっとむっとした。なんだこいつは? 僕はなんでこんな奴と会おうなどと思ったのだろう。僕は煙草を灰皿に押し付けて消すと、両肘をテーブルにつき、ネクタイを緩めて「ねえ」と声をかけた。「きみってゲイなの?」

 相原はぎょっとしたように目を見開くと、明らかに動揺した様子で言った。

「な、何言ってるんですか」

 僕は目を細めて、もう一度言った。

「ゲイなの?」

「違いますよ。誰が言ったんですか、そんなこと」

 相原はむっとしたように煙草を灰皿に押し付けた。

「テンコ」

 僕がそう答えると、相原はうざったく垂れ下がる前髪の間から、上目づかいにこれ以上ないほど目を見開いた。

「何言ってんですか?」

「だからテンコがそう言ったんだよ」

 相原はうっすらと汗を浮かべながら、テーブルの上に身を乗り出した。

「あんたさ、何言ってんだよ。あいつはもう死んでんだよ。だいたい、女と別れるのに」

 僕はそこで思いきり相原の顔の真ん中めがけて拳を叩き込んだ。うっとうめいて相原は椅子ごと後ろに倒れ込んだ。

「な、何を」

 驚いて目を見開いた相原の鼻から、つーっと鼻血が流れた。僕は相原の名刺をポケットに押し込んで立ち上がった。

「どっちでもいいや、もう」

 茫然としている相原にそう言い残すと、僕は試聴室を出た。そのまま受付を通り過ぎて自動ドアを出ると、むっとする暑気に立ち止まった。ネクタイをはずして上着のポケットに突っ込み、上着を脱いで手に持った。照りつける太陽を見上げて目を細めると、上着のポケットから相原の名刺を取り出して手のひらで握りつぶし、玄関先に捨てた。

 

 嫌な感じだった。炙るような陽射しの下を赤坂見附の駅目指して歩きながら、僕はやり切れない思いを覚えた。それは相原に対する嫉妬と言うよりも、絶望に近かった。もしかしたらそれは、テンコが自らの命を絶った日に感じたものに似ているのかもしれない。

 銀座線に乗ると、渋谷で降りた。

 僕はアテもなく渋谷の町を歩き、気がつくと大きな書店に入っていた。何をしたらいいのか分からなかった。ぶらぶらと棚に並ぶ本を眺めながら店内をさまよった。僕は小さいころから本屋というものが好きだった。本を読むのが好きだった。本屋の書棚にずらっと並ぶ本を眺めていると、そこには全てがあるように思えた。過去も未来も、そして夢さえも。本を書くのが夢だった。自分の本が書店の棚に並ぶのが。だから出版社に入った。僕の未来。僕の夢。それはいったいどこにあるのだろう?

 気がつくと新書のコーナーの前に立っていた。ぼんやりと棚に並ぶタイトルを眺めた。鬱病、という文字が目に入った。テンコが鬱病になったと僕に話したことを思い出した。僕はその本を手に取ると、レジに足を運んだ。

 冷房の効いた書店を出ると、ことさら蒸し暑さが応えた。東急本店通りの信号を渡ると、とにかく喫茶店にでも入ろうと思った。道玄坂に抜けると、例の二階にある喫茶店に入った。

 濃いコーヒーをすすりながら、相原のことを考えた。なんであんなことをしてしまったのだろう? 僕は相原を殴ってしまったことではなく、相原に会いに行ったことを後悔した。つまらん男だった。僕はそれを知りたくて会いに行ったのだが、いざ知ってみると、後には後悔と嫌な後味だけが残った。あんな男のためにテンコが死んだと思うと、それはどうしようもなく不条理なことに思えた。僕はやり切れない思いで胸が詰まりそうになり、煙草に火を点けた。

 ふと僕はぞっとする思いに捕らわれた。僕はもしかして相原を殴ることによって、テンコのこの世に残した思いを晴らしてしまったのだろうか? いつか考えた、テンコが地縛霊だとすると、そしてその原因が相原にあるとすると、僕がやったことでテンコはもうこの世に現れる必要はないのではないか? 考え過ぎだ。僕は頭を振ってその考えをアタマから追い払った。また相原に対する怒りが込み上げてくる。あいつのせいでテンコはもう年を取れない。

 でもわたしは年を取れないの。

 テンコの悲しそうな目がアタマに浮かんだ。僕は煙を溜息と共に吐き出した。そして僕は年を取ってしまう。いつかよぼよぼの年寄りになってしまう。僕の未来。僕とテンコの未来。切なさと同じ分量の絶望とがこみ上げてきて、僕は両手で顔を覆った。

 傍らに置いた、さっき買ったばかりの本を手に取った。ぱらぱらとページをめくった。もしかして、僕も鬱病になりかけているのかとちらっと思った。そういえば六時に医者を予約してあったことを思い出した。鬱病。医者。テンコもそうやって。

 そのとき、それは天啓のようにアタマに閃いた。それは素晴らしい考えのような気がした。僕の未来は輝かしいものに思えた。すぐそこにある未来。そして永遠。僕のとるべき道はそれしかないように思えた。アドレナリンが身体中を駆け巡るのを感じる。

 時計を見た。六時まではまだ時間がある。僕は冷めかけたコーヒーをぐいと飲むと、本のページに目を走らせた。

 

22.

 

 受付に保険証を出して、待合室の椅子に座った。それは待合室と言うよりも、ちょっとしたカフェのような、やたらと洗練された部屋だった。壁の色ひとつ取っても、欧米の建物を思わせる色使いで、うるさくない程度に趣味のいい抽象画がいくつか壁にかけてあった。値の張りそうな書棚にスノッブな雑誌がコーディネイトされて置いてある。音量を抑えたニューエイジミュージックが流れる中、木のテーブルが三つ、おのおの余裕をもって配置されており、順番を待つ患者が出来るだけ他の患者が気にならないように配慮されている。これだけインテリア・コーディネイトされた医者の待合室というのも初めてだ。

 僕はそれらを物珍しげに眺めながら、神経を扱う医者というものはこういうところにも神経を使うのだな、と思った。精神科というと、田舎育ちの僕にとってはやたらと敷居の高い、入りにくいところという印象があったが、先週電話したときに感じたように、やたらと繁盛しているようだし、いまどきはそれだけ神経を病んでいる人が多いのかもしれない。

 僕はもう一度本で読んだ鬱病とパニック障害の症状をアタマの中でおさらいして、最初に書いてくださいと渡されたクリップボードのアンケート用紙に適当に症状を書き込んで受付に戻した。所在なげに待っている間に、他のテーブルで待つ患者をちらっと見ると、気のせいか少々神経質そうには見えるが、全く普通の人たちだ。僕が思い描いていたキチガイ病院のようなところとは雲泥の差で、名前の通りにクリニック、というのが正しいように思われた。

 僕は一度トイレに入って、鏡を見た。トイレも完璧に掃除されていて、完璧にコーディネイトされていた。鏡に映る自分の顔は相変わらず頬がこけてげっそりしている。もしかして健康そのものに見えたらどうしようかと思ったが、これなら安心だ。

 二十分ほどして、僕の名前が呼ばれた。診察室に、失礼します、と言いながら入った。そこは診察室というよりも、アメリカ辺りの書斎のようだった。実際、壁一面が書棚になっていて、部屋の真ん中に大きな書斎用の木の机が置いてあり、その向こうの椅子に、ラルフローレンのポロシャツを着た三谷幸喜そっくりの医者が愛想よく微笑んでいた。

 どうぞ、と言われて僕は机の前に置かれた椅子に腰を下ろした。三谷幸喜そっくりの医者は、先程僕が書き込んだクリップボードを手に、どうされました、と微笑んだ。僕はなるべくこの世の終わりのような表情を作ると、眠れないんです、と言った。いつごろからです、と問われて、二週間ぐらいになります、と沈痛な表情を作って答えた。それと、と僕は続けた。人が隣に座ると異常に圧迫感というか、ストレスを感じるのです。僕がそう言うと、医者はにこやかに微笑みながら、なるほど、と言った。それで、と僕は視線を落として苦悩とはこれだというような表情をしながら、数年前からときどきパニックの発作が起こるのです、と言った。数ヶ月に一度、とてつもなく死の恐怖に襲われて、不安で叫んでしまったりするのです。三谷幸喜そっくりの医者は少し同情するような顔で、なるほど、と言った。あと、と僕はさらに続けた。ときどき息が苦しくなって呼吸が出来なくなったりすることがあるんです。あの、僕は鬱病なのですか? と訊いた。

 三谷幸喜そっくりの医者は、眼鏡をちょっといじりながら、ちょっと早口に、軽い鬱だと思われます。それと、パニック障害という病気です。そこで表情を和らげて笑みを浮かべると、でも心配ありません、それはからだの病気なのです、薬を飲み続けることで治ります、と言った。あの、と僕は急に思いついたという振りをして、ときどき電車に乗っていて、急に気分が悪くなって冷や汗がどっと出たりすることがあって、次の駅で降りちゃったりすることがあるんですが、それもその病気ですか、と訊いた。それはパニック障害の発作です、と医者は自信たっぷりに言った。

 それから医者は錠剤をいくつか机の前に取り出すと、お薬をいくつかお出しします、と言って説明を始めた。ひとつはからだの方から治す薬、それと心の不安を取り除く薬です、と言って、緑色のパッケージの錠剤とオレンジ色のパッケージの錠剤を示した。これを毎日朝昼晩と三回、飲んでください。それと、パニック障害の発作ですが、もしなりそうだな、という感じがしたらこれを飲んでください、ともうひとつのパッケージを取り出した。これはこの、と先程のオレンジ色の薬を示して、薬と同じものの強い奴です。緊急常備用に持ち歩いてください。それと、と医者は新たに二つ薬を取り出して、眠れないということなので、寝る前にこの二つを飲んでください、と言った。ひとつはからだをほぐす役目で、もうひとつは眠るための薬です。睡眠薬の方はかなり強いですから、寝る直前に飲むようにしてください。それと、アルコールと一緒に飲むと記憶が飛んだりしますので気をつけてください。それじゃ、と医者はカルテにずらずらっとドイツ語か何かでひとしきり書き込んだあと、二週間分お出ししますので、それで様子をみてください、と言った。僕はそこでシステム手帳を開いて、すみません、と言った。再来週は一週間ほど出張に出るので、三週間後にしてもらえませんか。三谷幸喜そっくりの医者はにこやかに微笑むと、分かりました、じゃ、三週間分お出しします。三週間後にもう一度来てください。じゃ、お大事に。

 僕は待合室で薬が出るのを待った。

 名前を呼ばれて受付に行くと、看護婦が薬をずらっと並べて説明をした。僕は結構な量だな、と思った。看護婦が薬を全部入れると薬袋はパンパンに膨らんだ。精算を済ませて保険証を返してもらうと、僕は完璧にコーディネイトされたクリニックを後にした。

 

 外はどんよりと曇ってきて少しずつ薄暗くなり始めていたが、蒸し暑さは相変わらずだった。駅前のコンビニで弁当を買うと、酒屋に寄ってワインを一本買った。とぼとぼと帰り道を歩きながら、これで完璧だ、と思った。それからテンコのことを考えた。テンコが来るのを待つべきだろうか? テンコは僕のすることを止めるだろうか? 僕はやっぱり決心が揺るがないうちに決行すべきだ、と思った。これでいいのだ。これで僕らは永遠になる。未来は永遠になるのだ。都営住宅の私道を抜けると、頭上の電線には相変わらずカラスが群れていた。

 

 部屋に戻ると、エアコンのスイッチを入れて、服を全部脱ぎ捨てると、シャワーを浴びた。Tシャツと短パンに着替えると、茶を淹れて弁当を食べた。やれやれ、最後に食べたのがコンビニの弁当か、泣けるな、と思った。

 ふと思い出して、田舎に電話を入れた。呼び出し音が数回鳴って、母が出た。

「もしもし、オレ、スグル」

「米届いた?」

「届いた」

「元気なの?」

「うん。そっちは」

「元気だよ」

「父さんも?」

「代わる?」

「いやいい」

「風邪ひかないように気をつけるんだよ」

「そっちもね、じゃ、ありがとう」

「ちゃんと食べるんだよ」

 僕は受話器を置くと、キッチンの片隅に置いた、今朝届いたダンボールに目をやった。今日ぐらいは自分でつくるんだったな、と後悔した。

 ワインをコルク抜きで開けると、グラスと一緒にリビングのテーブルの上に置いた。それからソファに座り、医者からもらった薬袋の中身を出した。リモコンでテレビのスイッチを入れると、ゴールデンタイムだけあって、チャンネルを回しても歌番組やバラエティばかりだった。結局、ディスカバリーチャンネルに合わせて、アマゾンのジャングルに生息する動物たちを見ながら煙草を一本吸った。

 テレビを消すと、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」をかけた。何故か菱川のことがアタマに浮かんだ。携帯を手にすると、菱川にかけてみた。留守電のメッセージが流れた。発信音の後に、昨日はありがとう、とだけメッセージを入れて切った。

 さて、と。

 僕はワインをグラスに注いだ。封を切ったばかりのワインは、コンコンといい音を立てた。テーブルの上に置いた薬のパッケージからひとつずつ錠剤を押し出した。量が多くて、これはかなり面倒だな、と思った。僕は一心不乱に錠剤を出す作業に集中した。キース・ジャレットは時折唸り声を上げながら、センチメンタルにピアノを弾いた。

 錠剤を全部取り出すと、シャワーを浴びたばかりだというのに額に汗をかいていた。一ヶ所にまとめると、結構な量だった。僕は空になったパッケージを傍らのゴミ箱に突っ込むと、薬の山を混ぜ合わせた。錠剤そのものは皆白いので、混ぜるとどれがどれだか分からなくなった。僕は煙草に火を点けて、ゆっくりと煙を吐き出してから、手のひらに十個ほど錠剤を載せた。口の中に放り込むと、ワインで流し込んだ。僕は「死」というものを考えてみた。今日、あの医者に言ったことは全部が嘘というわけではなかった。僕は子供のころから死ぬことが怖くてたまらなかった。何年に一度かは、「死」というものを突き詰めて考えて、夜中にパニックに陥った。僕はもうひとつかみ錠剤をワインで流し込んだ。こうしてみると、案外怖くないな。テンコが言ってたように、人間て案外簡単に死ねるもんだ。僕は去年自殺した同級生のことを思い出した。彼とはアパートが近くて、よく一緒にメシを食った。自殺した、と聞かされて全く思い当たるものがなかった。自殺の理由は彼の家族も知らないようだった。僕らは一様に首をひねった。あいつはなんで自殺なんかしたんだろう? しかし、こうしてみると、死ぬことにそれほどの論理的な理由はいらないのだ、と思った。テンコがあれだけの理由で、あんなつまらない男のせいで死んでしまったことが分かるような気がした。自殺というものは常に理屈に合わないものなのだ。僕の場合はどうだろう? 全く理に適っているように思えた。僕がテンコと同じになるにはこれしか方法がない。僕は間違っていない。僕は永遠を手にするのだ。ぐらっと眩暈がした。僕はソファに横になると、新たな錠剤をまたひとつかみ、口に入れて、ワインを飲んだ。横になると、眩暈は一時的に治まり、気持ちがふわりとしてきた。世界が全く平和に思えてきた。僕がこれまで抱いてきたさまざまな不安が全て馬鹿らしいものに思えてきた。いろんなことに怯えてきたことも。シホードーマサコの言葉や坊主に怯えたことも。目に見えることが全て厄介事や不吉なものに思えたことも。僕は何を怯えていたのだろう? もうひとつかみ飲もうとしたが、朦朧としてきてうまくつかめなかった。テーブルの下にバラバラと何錠かがこぼれ落ちた。僕はかろうじて手に残った五錠ほどの薬をワインで飲み下した。テンコのことを考えた。テンコ。オレは間違っているのか? しかし、間違っていようが、それはどうでもいいことのように思えた。アサコのことがアタマに浮かんだ。僕はもうアサコを傷つけることも、アサコに傷つけられることもない。菱川の泣き顔が次に浮かんだ。僕はもう誰も傷つけることはない。それは素晴らしいことのように思えた。グラスのワインが空になっていたので、ボトルから注ぎ足した。十錠ほどつかむと、ワインで流し込んだ。部屋の中が歪んで見えてきた。眩暈が酷くなった。テンコ、これでいいんだよな? これでもうオレは年を取らない。テンコと同じように。僕らはもう永遠に今のままだ。これで僕らの未来は永遠になるんだ。僕はもう一度テーブルに手を伸ばした。風景が曖昧になり、ワインのボトルに触れてボトルがテーブルの上に倒れ、ひと転がりすると、床の上に血のように垂れ始めた。薬はうまくつかめなくて、僕の手は宙を切った。テンコの舌と、汗ばんでくびれた腰の感触を思い出した。世界はますます曖昧模糊となり、僕の意識は水の中を漂っているようだった。左手に持ったグラスが傾いてTシャツの上にしみが広がった。テーブルに手を伸ばすと、バラバラと錠剤が床に落ちていった。キース・ジャレットは上空百メートルぐらいのところで鳴っていた。何もかもが次第に混ざり合って行くのを感じた。僕は世界と一体になるのだ。そして未来と。あれ? と思った。テンコ、走馬灯のようにならないぞ。どうしたんだろう? 僕自身が走馬灯になっているのだろうか? 僕はいまや全ての中心だ。ここにはもう何もない。こぼれたワインも、散らばった錠剤も、開けなかったダンボールも。母さん。ここには全てがある。世界はここにある。全てが。僕は浮かんでいるのだろうか? 沈んでいるのだろうか? テンコ。

 

23.

 

 慌しい声がする。

 誰かが僕の名を呼んでいる。瞳孔散大、とか、血圧低下、とか叫んでいる。チューブを、という声も聞こえる。死ぬことって案外騒々しいものだな、と僕は思った。

 

 テンコの顔が見えた。僕はそれに微笑みかけた。テンコはいつかのように泣いているように見えた。テンコ、なんで泣いているんだ? なあ、テンコ。

 

「安川くん?」

 目を開けると、目の前に菱川の顔があった。あれ、死んだのになんでテンコじゃなくて菱川がいるんだろう、と思った。白い天井が見えた。気がつくと病院のベッドの上だった。微かに病院独特の匂いがする。

「菱川」

 僕はようやく声を出した。

「気がついた?」

 菱川が弱々しく微笑んだ。その目は泣き腫らした跡があった。

「オレは生きてるのか?」

「そうよ、馬鹿ね」そう言って菱川は半分泣き顔で笑った。

「菱川、どうしてここにいるんだ?」

「何度電話しても自宅も携帯も出ないし、無断で休んで連絡もないって言うから、あなたの部屋に行ってみたの。そしたら隣の人が、昨夜救急車で運ばれて行きましたよって。病院探すの苦労したわよ」

「じゃあ、きみが呼んだわけじゃないんだ、救急車」

 菱川はうなずいた。僕は酷く喉が乾いて、水、と言った。菱川は水差しの口を僕の口元に差し出した。それを吸い込むと、冷たい水が喉から食道を伝わって行くのが分かった。

「水がこれほどうまいとは思わなかったよ」

 菱川はまた弱々しく笑った。

 

 菱川は明日また来るね、と言って帰っていった。僕は天井をぼんやり眺めながら、煙草が吸いたいと思った。菱川が看護婦に聞いた話によると、女性の声で連絡があって、救急車が駆けつけたということだった。後一歩、胃の洗浄が遅れていたら助からなかったそうだ。僕は昨夜のことを思い出そうとした。帰ってから鍵をかけたかどうか考えた。どうしても思い出せなかった。しかし、無意識のうちにいつも鍵をかける習慣はついている。昨夜も間違いなく鍵をかけていた筈だ。テンコだ、と思った。鍵を開けたのも、救急車を呼んだのも。しかし、どうしてだ? テンコ? 何故僕を死なせてくれなかった?

 僕はいつのまにかまた寝てしまった。

 

 夜中に目が覚めた。時計がないので時間が分からない。病室の中は真っ暗だ。

「目が覚めた?」

 耳元で囁くような声が聞こえた。テンコがベッドに両肘をついて、僕を覗き込んでいた。

 テンコ、と僕は声を出そうとしたが、声にならなかった。身体を動かそうとしたが、ぴくりとも動かなかった。これは金縛りなのだろうか、と思った。

「そうだとも言えるし、そうでないとも言えるわね」テンコが言った。

 もしかして僕の言葉が聞こえるの?

「うん」

 テンコは微笑んだ。初めて会ったときの、あのキュートな笑顔だ。

 なあ、テンコ、なんで死なせてくれなかった? 僕は心の中で問いかけた。

「死んじゃダメだよ、スグル」

 そう言ってテンコは僕の髪を優しく撫でた。

 テンコと同じようになれたのに。

「それはどうかな? 分からないよ」

 僕はテンコと一緒にいたかった。

「わたしもよ」

 テンコは僕の髪に軽くキスをした。

「ごめんね、スグル。わたしはたぶん、あなたにとって悪い存在なのよ」

 そう言ってテンコはちょっと悲しそうな顔をした。

 そんなことはない。もしそうだとしても、それでもいいんだ。

 テンコは口元に笑みを浮かべながら首を横に振ると、言った。

「スグルは生きるのよ」

 なあ、テンコ、もう十二時過ぎてるか?

「うん」

 誕生日おめでとう。

 テンコはもう一度嬉しそうに微笑むと、僕の唇にキスをした。

「ありがとう」

 テンコ。もう会えないのか、オレたち?

「うん」

 テンコは唇に笑みを浮かべながら、寂しそうな目をした。

 オレのこと好きか、テンコ?

「うん」

 ありがとう。

「わたしもう行かなくちゃ」

 もう行っちゃうのか、テンコ?

 テンコはそれには答えずに、もう一度僕の唇にキスをした。

「さよなら」

 そう言うと、テンコは泣きべそのような顔を浮かべて、笑った。

 さよなら。

 

24.

 

 翌日も菱川は訪れた。

 点滴が終わって、菱川に屋上に連れてってくれ、と言った。菱川は、まさか飛び降りたりしないよね、と笑った。

 屋上はさんさんと降り注ぐ日の光を浴びて、揺らいでいるように見えた。僕はまぶしさに目を細めた。風が少しだけ吹いて、干してあるタオルや白衣を揺らした。僕と菱川は手すりにもたれて外を眺めた。

「なあ、煙草持ってるか?」

 僕は菱川に訊いた。菱川はうなずくと、自分の煙草を取り出して、僕に一本渡すと、自分も一本くわえた。菱川の差し出すライターで、両方の煙草に火を点けると、僕らはすっかり夏らしくなった空めがけて煙を吐き出した。それは雲と混じり合うように流れていった。

「昨夜テンコが現れたよ」

 僕がそう呟くと、菱川は黙ってこちらを見つめた。

「さよならって」

 僕はそう言うと、ふうとまたひとつ煙を吐いた。

「ねえ、安川くん、もしかして救急車呼んだのって」

「うん」

 僕はそれだけ答えると、ゆっくりと煙を吐いた。

「なんで死のうなんて思ったの?」

「なんでかなあ」僕はゆっくりと動く雲を見つめた。「ただ、なんで人は自殺するのか、ちょっと分かったような気はする」

「ねえ、もうしないって約束して」菱川は真顔になると言った。

「もうしないよ。もう終わったんだ」

「なにが?」

 僕はそれには答えずに、煙草を深く吸った。

 

 退院の手続きを済ませると、病院の前でタクシーを拾った。走る窓から見る景色は何故か生き生きと、新鮮に目に映った。マンションの前で降りると、菱川に借りた金でタクシー代を払った。郵便受けを見ると、郵便物がはみ出していた。僕はそれをまとめて手にすると、階段を上った。

 鍵を開けると、部屋の中はむっとして空気が淀んでいるようだった。郵便物を玄関先に放り投げると、寝室のエアコンのスイッチに手を伸ばしたが、思いとどまってカーテンと窓を全部開け放した。リビングに入り、こちらもカーテンと窓を開けた。それから僕は転がったままのワインのボトルを拾い、キッチンのゴミ箱に放り込んだ。先程の郵便物の中から、ケーブルテレビの番組表を手にすると、リビングに戻ってそれをちりとり代わりにして、テーブルの上に散らばった錠剤と、床に散らばった錠剤をゴミ箱に捨てた。ふと気がついて電話を見ると、留守電のランプが点滅していた。再生ボタンを押すと、僕が病院に運び込まれている間に入れたらしい、菱川のメッセージが三件、再生された。どれも、「安川くん、いるの?」とか「安川くん、大丈夫?」というものだった。携帯の留守電にも同じようなメッセージが入っていた。結局、親には急性のアルコール中毒になった、ということにして、入院費用を出してもらった。僕はキッチンに戻ると、隅に置かれたダンボールをひざまずいて開けた。中には、五キロ入りの米と、いくつかの缶詰と、ふりかけと漬物が入っていた。僕はふと思い出して、食器棚の引き出しを開けた。そこに入れていたはずのテンコの写真は消えていた。引き出しを閉めながら、本山さんになんて言おうか、と考えた。まあいい、それにあれは僕が知っているテンコの写真ではないのだ。僕の知らないテンコだ。

 寝室に入って机の前に座ると、パソコンの電源を入れた。メールソフトを立ち上げてネットに繋ぐと、メールが三通届いていた。

 僕は新しいメールから順に見ていった。

 一通は宮本からだ。タイトルは「日本の悪霊」。開いてみると、やたらと長いメールだった。ちらっと見る限り、あれから本をあさって調べたようだ。僕は短い溜息をひとつつくと、読まずに次のメールを開けた。菱川からだった。タイトルは「元気?」。こちらは短いメールだ。

―― もう退院した? 元気になったら、今度はちゃんとおごってね。

 もう一通は、タイトルも発信者も空欄だった。そこには一行だけ書いてあった。

―― ありがとう。

 僕はしばらくディスプレイのその文字を見つめていた。

 

25.

 

 不思議なことに、本山さんからはそれっきり電話もメールもなかった。僕はふとしたはずみに彼女を思い出すたびに、写真をなくしたことをメールしようかと考えたが、思いとどまっていた。寝た子を起こすこともない。それに、考えてみれば、不思議でもなんでもないのかもしれない。こんなことはよくあることなのだ。

 

 すっかり夏になっていた。退院した翌日から仕事に戻ると、元のだらだらとした日々が始まった。坂崎は相変わらずスポーツ新聞に読み耽り、香取さんは機嫌がよくなったり、悪くなったりした。菱川とは一度、夏のボーナス代わりの一時金が出たときに青山のイタリアンレストランで食事をした。もちろん、勘定は僕が払った。それから僕は一度長野県に出張に行き、温泉旅館を三つほど泊まり歩いた。会社のみやげとは別に、菱川には彼女あてのみやげを買った。

 

 出張から戻ってきた翌週の月曜日、例のだらだらとした朝の会議に出ていた。会議の中身は早々に終わり、皆思い思いに雑誌を読んだり、世間話を始めた。僕はなんとなく喫茶店に置いてあった雑誌を手に取った。女性向けの情報誌だ。ぱらぱらとページをめくっていると、知った顔が目に飛び込んで来た。「この夏はステキな恋をしたい!」という見出しのページに、いろんな職業の人のコメントが写真つきで載っていて、女性のコメントを並べたページの左隅に小さくアサコの写真が載っていた。土田麻子さん(24)レコード会社勤務。相変わらずアサコはきれいだった。そのページに載っている他の誰よりも。コメントをちらっと読むと、わたしは仕事が忙しいので、どうしても出会いは仕事上で、ということになってしまいます、とかなんとか書いてあった。成田離婚のことはどこにも書いてなかった。そりゃそうだな、と思ってページをめくると、今度は男性のコメントが並んでいた。今度も見覚えのある顔が目に入った。真ん中辺りに、相原の写真が載っていた。相原正人さん(24)レコード会社勤務。相原は僕が会ったときよりも随分日焼けしているように見えた。相変わらずウェーブのかかった茶髪を垂らしていた。コメントの出だしは、僕の理想の女性は、とあったが、それ以上読まずに雑誌を閉じて、けっ、と小さく声に出した。

 その夜、菱川と渋谷で待ち合わせて、僕は近道をするためにプライムの中を通り過ぎた。相変わらず占いのブースは並んでいたが、前よりも数が減っていて、シホードーマサコのブースはなかった。ほっとして外に出ると、建物の裏の暗がりに、シホードーマサコが即席の机を出して座っていた。僕は一瞬ぞっとして立ち止まった。向こうから若い男がやってきてその前を通り過ぎようとすると、シホードーマサコはかっと目を開いて、「お待ちなさい」と声をかけた。男はぎょっとした表情で立ち止まった。シホードーマサコはその男を睨みつけて言った。

「気をつけなさい。悪霊が憑きかけておる」

 僕は苦笑すると、その場を後にした。

 

 あれからもう二週間以上経つが、やっぱりテンコは現れなかった。夜は毎日メールをチェックしていたが、発信者がないメールはあれ以来一度も届いていなかった。しかも、不思議なことに以前届いていたテンコからのメールも、削除した覚えがないのにログから消え失せていた。

 僕は夜の屋上に立って煙草を吸いながら、テンコのことを考えた。幾度となく考えたことだった。テンコは僕の部屋で起こることを知っていた。テンコは、僕が引っ越したときから僕のことを知っていたのだ。彼女は突然現れたわけではないのだ。彼女は僕のことを既に知っていた。テンコが現れたのは、相原に対する思いのせいではなくて、僕に対する思いのせいだったのだ。僕はそう思いたかった。それから僕は思った。

 あれは果たして現実だったのか? 彼女は果たして僕にとってなんだったのか? 本当に彼女自身が言うように、悪いものだったのか?

 そのたびに僕は思うのだった。どちらでもいいと。僕に分かっているのは、あれは恋だったのだ、ということだ。

 

26. 

 

 取次の担当者と新刊の打ち合わせをしていて、僕はメモを取ろうとシステム手帳をぱらぱらとめくった。開いたところにちょうど、川島佐知子の名前と連絡先が書いてあった。僕は思わず手を止めた。どうかしましたか? と言う担当者の声に我に返ると、首を振って、なんでもないです、と答えると、打ち合わせを続けた。

 打ち合わせが終わって外に出ると、外はうだるような暑さだった。僕は手近な喫茶店に飛び込むと、コーヒーを頼んだ。ウェイトレスがホットですか? と尋ねるので、そうです、と答えた。僕はいつもホットなのだ。ウェイトレスが持ってきたおしぼりで顔の汗を拭うと、煙草を一本吸った。

 店内は冷房が効いていて、頼んだコーヒーが届くころには汗は引いた。僕はコーヒーをすすりながら、鞄からシステム手帳を取り出した。そして、先程のページを開くとしばらくそれを眺めていた。それから携帯を取り出すと、ボタンを押し始めた。

 

 千葉で総武本線に乗り換えると、佐倉で降りた。時計を見ると、一時を過ぎたばかりだ。川島佐知子には一時ごろに行くと伝えてあったので、ちょっと遅刻だ。道順は佐知子から聞いてあった。教えられた通りに炎天の中を歩いた。日曜の昼下がりの住宅街は、道を行く人もまばらだ。十分ほど歩くと、建て売りの住宅が何軒か並んでいる通りに出た。どれも皆似たような外観なので、一軒ずつ表札を確かめていくと、三軒目に川島という表札に当たった。通りに面して小さい庭と駐車場のある、二階建てのこじんまりとした典型的な郊外の一戸建て、という感じだった。駐車場には佐知子のものであろう、軽自動車が停まっていた。

 玄関に備え付けられたインターフォンを押すと、はい、という女性の声が聞こえた。安川です、と告げると、お待ちしておりました、今参ります、という声が聞こえた。そのまま待っていると、玄関のドアが開いて、上品な五十がらみの女性が顔を出し、どうぞお入りくださいとにこやかに微笑んだ。

 こちらへどうぞ、と言われて、僕は日当たりのいいリビングのソファに腰掛けた。家の中はとても奇麗に片付けられていた。僕が少々緊張しながら座っていると、佐知子が皿にすいかを乗せて現れて、どうぞお楽になさってください、と言いながらテーブルに置くと、向かい側に座った。僕が特に意味もなく、すみません、と言うと、佐知子は遠いところをわざわざありがとうございます、お暑うございましたでしょう、と深々とお辞儀をしたので、こちらも思わず、お休みのところをお邪魔して申し訳ありません、と頭を下げた。佐知子はテーブルの上にあった電気ポットを指差して、熱いお茶でも構わないかしら、わたし、冷たいのは苦手で、と言った。僕は、僕も熱いお茶の方がありがたいです、と答えた。急須を出してお茶を淹れている佐知子に、あの、と僕は声をかけた。先にお線香上げさせてもらって構いませんか。僕がそう言うと、ありがとうございます、そちらの奥に仏壇がありますので、と部屋の隅にあるドアを指差した。僕は失礼します、と言ってソファを立った。

 隣は八畳ほどの和室だった。仏壇の前に座ると、黒縁の写真立ての中でテンコが微笑んでいた。置いてあったマッチで蝋燭に火を点けると、それで線香に火を点けた。目をつぶると手を合わせた。外ではミンミンゼミが鳴いていた。

 リビングに戻ると、テーブルにはお茶が出来上がっていた。佐知子はもう一度、ありがとうございます、と頭を下げた。

「あの」僕がお茶をすすっていると、佐知子が言った。「典子とはどういったお知り合いで」

「最近、あ、つまり亡くなる直前という意味ですが、今年になってからの友人です」

「そうですか、それなのにわざわざお線香上げて頂いて」

「いえ、こちらこそ、仕事でお葬式に顔を出せなかったものですから」

 どこか八千草薫を思わせる、人の良さそうな佐知子に、予め考えていたこととはいえ、嘘を吐くのは心苦しかった。しかし、本当のことを話すわけにもいかない。

「失礼ですが」僕はお茶をテーブルに置いて言った。「なにしろ知り合って日が浅かったものですから、その、立ち入ったことを訊くようで申し訳ないですが、こちらはお母さんがお一人でお住まいなのですか?」

「ええ、そうなんです」佐知子は屈託のない笑みを浮かべて答えた。「恥ずかしい話なんですけど、典子たちがまだ小学校のころに離婚いたしまして」

 典子たち?

「あの、テンコ、いや、典子さんにはごきょうだいがいらしたんですか?」

「ええ、ちょっとお待ち下さい」

 佐知子は一礼すると、リビングを出て行き、しばらくすると写真立てをひとつ持って戻ってきた。

「姉がおりますのですよ」

 そう言って、佐知子は僕に写真立てを手渡した。僕はそれを手にすると、目を見張った。

 そこには、小学生ぐらいのテンコが二人写っていた。

「あの」僕がようやく声を出すと、佐知子は相変わらず穏やかな笑みを浮かべて言った。

「そうなんですよ、双子なんです。一卵性なのでそっくりでしょ。わたしもときどき区別がつかないくらいで」そう言うと、佐知子はお茶を両手で持ってひと口すすった。「離婚したときに、姉の桐子(きりこ)は主人が引き取ったのです。その、一卵性というのは不思議なものですねえ、三月から典子がその、具合が悪くなったでしょう? そうしたらその、桐子の方も同じ病気になりまして」

「鬱病ですか?」

「ええ、もうすっかりよくなったみたいですが」

「そうしますと、その、桐子さんはお父さんの方の苗字になるわけですか?」

「ええ、村上と申します」

「こちらにはよくいらっしゃるので?」

「桐子の方は、短大を出て勤めに出ましたものですから、そうですねえ、一年に一度ぐらいかしら」それから佐知子は庭先に目をやると、微かに思い出し笑いを浮かべて言った。「お葬式の日には、御存知ない方がびっくりしてました。典子が生き返ったって」

 僕は喉がからからに乾き、出されたお茶を飲み干した。

「あの、桐子さんはどちらにお住まいで」

「それが、典子と同じマンションなんですよ。あんなことがありましたから、引っ越したら、と言ったんですが、まだ引っ越してないみたいで」

 僕は軽い眩暈を覚えた。外では相変わらず蝉がやかましく鳴いていた。

 

27.

 

 せっかく来たので墓参りをさせてください、と僕は言った。佐知子に簡単な地図を書いてもらうと、それを手に川島家を後にした。

 汗を拭いながら住宅が次第にまばらになっていく道を歩いた。途中に花屋があったら花を買っていこうと思ったが、これではありそうもなかった。歩きながら郵便受けのことを考えた。僕の郵便受けの隣にある、二○三号の郵便受けには、確か「村上」とあった。考えてみれば、引っ越してからこのかた、同じマンションの住人どころか、隣人にもほとんど会ったことがなかった。見かけたことがあるのは、一階に住む女性の後ろ姿と、階段側の二○一号の住人であるおばさん、後は三階の住人らしい若い男と一度階段ですれ違ったぐらいだ。引越しの挨拶なんて古風なことはしなかった。全部で十二部屋ある他の部屋には、どんな住人が住んでいるのか、全く知らなかったし、気に留めることもなかった。

 道の先にはかげろうが立っていた。五分ほど歩くと、大きな寺があった。山門をくぐって境内に入ると、正面にある本堂の左手に墓地が広がっていた。墓地に入ると、佐知子の書いてくれた図を見ながら、テンコの墓を探した。それは墓地の一番奥の方にあった。川島家乃墓、という比較的大きな墓の隣に、真新しい墓石が立っていた。僕は持ってきた線香にジッポで火を点けると、しゃがんで手を合わせた。蝉が降り注ぐように鳴いていた。テンコ、来たよ。いったいどうなってるんだい? 僕の知っているテンコは、桐子さんだったのかい? しかし、答えは返ってくるべくもなかった。

 参道をこちらに人が歩いてくる気配がした。僕は立ち上がると、そちらに目をやった。見ると、そこにはテンコがいた。木の桶に小さい花束を持って。いや、これは桐子の方なのだ、と自分に言い聞かせた。しかし、どこから見てもテンコにしか見えなかった。着ている服も、いつかテンコが着ていた黒のノースリーブのTシャツに、ベージュのスカートだった。茫然と立ち尽くす僕の額から汗が流れ落ちた。蝉の声が頭の中をぐるぐる回っていた。彼女は僕の前まで来ると、立ち止まった。そして、小首を傾げて不思議そうな顔をした。僕は喉元まで出かかっている、テンコ、という言葉を抑えるのに必死だった。彼女の口が動いた。

「スグル?」

 確かに彼女はそう言った。僕は驚きに目を見開いた。喉がからからに乾いていた。テンコ、と声に出そうとしたが、声にならず、口がわずかに動いただけだった。彼女ははっと気がついたように言った。

「あ、ごめんなさい、テンコのお友達ですか?」

 僕はかろうじて、ええ、という声を出して、近付いてくる彼女のために一歩退いた。彼女はひしゃくで墓に水をかけてから墓の前にしゃがみ込むと、花を取り換えて線香を上げた。そして目をつぶって手を合わせた。僕は呆けたようにその姿を見つめていたが、ふと、彼女の左の首筋にほくろがあるのに気がついた。テンコにもあった。僕ははっきりと覚えていた。僕は彼女のほくろにキスをした。あれは右の首筋だった。テンコの左の首筋にほくろはない。

 彼女が目を開けると、僕は声をかけた。

「あの、さっき僕の名前を」

 彼女はしゃがんだままこちらを振り仰いで、はにかんだような笑みを浮かべて言った。

「あ、ごめんなさい。突然頭に浮かんだんです、スグルって名前が」

 そう言うと、彼女はもう一度にっこりと微笑んだ。

 

(了)

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