夕立     

 

 

 僕は酷く喉が乾いていた。それに歩き疲れてもいた。とにかく、どこかに腰を下ろして冷たいものを飲み干したかった。
 夏はもう終わりかけているというのに、台風がひとつ過ぎ去った途端に、蒸し暑さがまたぶり返し始めていた。長いだらだらとした下り坂を、僕は歩道の上に落ちる街路樹の影を選ぶようにして歩いていた。傍らを走る幹線道路のアスファルトからはゆらゆらと熱気が漂い、ときおり車が通り過ぎるたびに、わざわざ酸素の少ない空気を選りすぐったような排気ガス臭い風が吹いてきた。
 酷い気分だった。今年に入って本業の仕事はほとんどなかった。かろうじて音楽学校の講師をやって食い繋いでいくのが精一杯だった。先のことを考えると憂鬱になるばかりで、改めて自分が中途半端に年を取ったことを思い知らされた。こんないい陽気の日曜だというのに、朝起きてもなにもすることがなかった。それで気分転換に公園まで散歩に出かけた。しかし、ベンチにぼんやり座って楽しげな家族連れを見ているうちに、かえって気分は落ち込んでしまった。僕はさらに増した憂鬱を抱えたまま、公園を後にして当てもなく歩いていた。
 僕はとにかく、最初に目に付いたカフェに入ろうと決心した。僕にいま必要なのは、冷たい飲み物と酸素だ。それさえあればなんとかなる、と思った。なんとか。
 前方にガラス張りのテナントビルらしい建物が目に入った。あそこならカフェがありそうだ。近付いてみると、期待に違わず店の前はパティオがあり、オープンテラスのカフェになっていた。外から見ても店内は混んでいた。この暑さだから当然だ。テイクアウト形式のカウンターの前には客が列をなしているのが見えた。僕はとにかくまず席を確保しなければ、と思った。店内はあきらめることにした。雰囲気がいかにも禁煙になっていそうな感じだし、それ以前に席はすべて埋まっているように思えた。外のテラスのテーブルもほとんど埋まっていたが、ちょうど手前から二つ目のテーブルの客が立ち上がって帰るところだった。ラッキー、と僕は思った。ついてる。そのテーブルはちょうど傍らに木があって木陰になっているし、テーブルの脇にはスタンド式の灰皿もある。僕はその四人掛けのガーデンテーブルが空くのを待って、鞄を椅子に置いた。
 店内に入って、カウンターの前の列に並んだ。店内はひんやりするほど冷房が効いていて、僕は外の席にして正解だったと思った。僕は冷房というやつが苦手なのだ。並んでいるあいだにぼうっと店内を見渡すと、客はほとんど若い女性か、もしくはカップルだった。僕のようなむさ苦しい男のひとり客は見当たらなかった。たぶんこの店はお洒落な店で、僕はおそらくお洒落な客ではないのだ。
 やがて僕の順番がまわってきて、オレンジジュースを頼んだ。泡が立っていかにも生ジュースというオレンジジュースを載せたトレイを持って、僕はテラスに出て確保しておいた席に向かった。

 

 驚いたことにそこには先客がいた。僕が鞄を置いておいた方と反対側の椅子に、サングラスをした若い女の子が座っていた。僕はトレイを手にしたまま立ち止まると、一瞬むっとした。なんだこの女は。僕は思いきり眉をひそめてみせた。わざとらしく鞄を置いた椅子の前で立ち止まっていたが、女の子は一向に意に介する気配はなかった。
 しかたなしに首を回してほかに空いているテーブルがあるか見渡してみたが、見つからなかった。やれやれ。僕は相席というものが苦手なのだ。かといってこのままトレイを持ってぼうっと突っ立っているわけにもいかない。僕はトレイをテーブルの上に置くと、鞄をひとつ隣の椅子に移し、ちょうど女の子と向かい合うかたちで腰を下ろした。
 サングラスの上に覗く彼女の細い眉がぴくりと動いて、ようやく反応らしきものが現れた。僕はまだむっとしていたが、この場合声をかけたものなのかどうか迷っていた。すみません、というのも先に場所を取っていた者としては悔しいし、かといってここは僕がキープしてたテーブルなんだけど、などと言うのも僕という人間の器の小ささを表すようで気が引けた。
 女の子は二十歳をちょっと過ぎたくらいの、サングラスを取ったら恐らく綺麗な子だった。白いシャツの袖をまくって、右手だけ肘掛けに肘を乗せていた。目の前には飲み物の類はなにもなかった。細い顎の線と、その上の唇をきゅっと結んで、彼女はじっと前を、つまり僕の方に視線を置いたまま黙っていた。その視線は僕に向いているというよりも、まるで僕という人間がそこに存在しないかのように、僕の身体を突き抜けた後ろの方に向いているように思えた。僕は居心地の悪さを覚えたが、濃いサングラスというのは往々にしてそんな感じがするものだ。目の前のサングラスに自分の姿は映っているものの、まるで自分が存在していないような。
 僕はオレンジジュースをストローでひと口飲むと、煙草を口にくわえた。そこで顔を上げてもう一度彼女の方をちらりと見ると、彼女は相変わらずこちらに視線を向けたままだった。僕はジッポで煙草に火を点けようとして、それからちょっとためらった。目の前にいる彼女がどうしても気になった。それでとうとう僕は声をかけた。
「あの」
 サングラスの上の眉が持ち上がった。相変わらず正面を向いたまま、彼女の口がなにか言いかけるようにすぼまった。僕はどうやらまったく無視されているわけではないことに少しだけ安堵して言葉を続けた。
「煙草吸ってもいいですか?」
「どうぞ」
 彼女は同じ体勢のまま、ぼそりと答えた。華奢な外見から想像するよりも、ちょっと低い声だった。それはちょっとかすれていて、僕らの距離以上に遠くに聞こえた。僕はどうも、と小さく答えて、一度手に戻した煙草をくわえ直すと火を点けた。
 ちょっと横を向いて遠慮がちに煙を吐き出しながら、ハタから見ると僕らはどう見えるのだろう、と思った。不精髭を生やした四十男と、サングラスをかけたクールな若い女の子。彼女が愛人に見えるほど僕は景気のよさそうな男ではない。かといって親子というには年が近過ぎる。このテーブル以外の人たちのようににこやかに談笑しているわけでもない。さしずめ、倦怠期を迎えた年の離れた夫婦といったところか。それともそろそろ関係が危うくなりかけてきた、ちょっとバランスの悪いカップルか。いずれにしろ、僕らのテーブルだけに、ちょっとした緊張感が漂っていた。
 僕はせわしなく目を動かして煙草を吸った。せっかく腰を下ろして冷たい飲み物にありつけたというのに、肩が凝ってきそうだった。彼女は相変わらず身じろぎもせずに僕の方を向いていた。カフェに来てなにも頼まないのだろうか、と僕は不思議に思った。彼女の前にはコップ一杯の水すらない。またちらりと見ると、彼女は額にうっすらと汗を浮かべているというのに。
 そんなことを考えているあいだに、煙草の先の灰が長くなって落ちそうになり、傍らの灰皿にそれを落とした。そのとき僕はようやく気づいた。彼女の足元に白い杖が立て掛けてあるのを。
 彼女は目が見えないのだ。
 僕は思わず、あ、と小さく声を上げた。それから先程彼女に対してむっとした自分を恥ずかしく思った。彼女の視線が僕の身体を突き抜けそうなわけも、彼女の前に飲み物が置かれてないわけも合点がいった。
 僕は煙草を灰皿に捨てて、オレンジジュースをもうひと口飲むと、意を決して言った。
「あの、なにか買ってきましょうか?」
「え?」
「飲み物」
 僕の予定では彼女はそこで顔をほころばせるはずだった。ところが、意に反して彼女はサングラスの上の眉をひそめながら言った。
「どうして?」
 僕は返答に窮した。きみの目が見えないから、とは言えなかった。僕が答えに詰まっていると、彼女はさらにたたみかけた。
「わたしが目が見えないから? それって同情?」
 僕はその勢いに気圧されて、それからちょっとむっとして、それからまた思い直した。確かに彼女の側に立ってみれば、これではまるで施しを待っている物乞いのようではないか。僕は溜息をひとつ吐いた。
「ごめん、気を悪くしたら謝るよ」
 僕がそう言うと、彼女は眉をひそめたままちょっと顔を赤らめて、それから僕と同じように溜息を吐いた。そして手術に失敗した医者のような表情で謝った。
「ごめんなさい。感じ悪かった?」
「いや、こっちが余計なこと言ったから」
「あのね、わたしみたいな人間って、ひがみっぽくなっちゃうのよ」
 僕はなんと答えていいものか分からず、黙ってオレンジジュースをもうひと口飲んだ。
「アイスティー」
 彼女の声が聞こえて僕は顔を上げた。
「ガムシロップ抜きで」
 僕はようやく救われたような気がした。突然故障して停まっていたエレベーターがやっと動き始めたような。

 

 僕がアイスティーの載ったトレイをテーブルに置くと、彼女はありがとう、と言って弱々しく顔をほころばせた。それは微笑と言うにはどこかぎこちなかった。
「いくら?」
 彼女は左手で隣の椅子に置いたポシェットをたぐり寄せながら言った。
「あ、いいよ」
 僕が椅子に腰を落としながらそう言うと、彼女は怒ったような口調で言った。
「よくない」
「どうして?」
 今度は僕が訊く番だった。彼女は相変わらず左手でポシェットを探りながら言った。
「あなたは裕福そうに見えないもの」
「見えるの?」
 僕は思わず驚いて目を見張った。
「感じるの」
 やれやれ。僕は自分のジーンズの膝に目を落とした。破れ目から膝小僧が顔を出していた。確かにそうなのだ。僕は裕福ではない。
「四百円」
 僕がそう言うと、彼女はポシェットをごそごそして五百円玉をひとつ、テーブルの上に置いた。僕はそれを受け取ると、ポケットから百円玉をひとつ取り出してテーブルの上に置いた。
「ありがとう」
 彼女はそこでようやく笑みを浮かべた。それはとても優しい笑みだった。僕はそこで初めて彼女が可愛い、と思った。
 僕らはそれからしばらく無言でそれぞれオレンジジュースとアイスティーを飲んだ。周りのテーブルからは、いろんな笑い声やささやき声、そしてたまには携帯の鳴る音が聞こえてきたが、僕らのテーブルだけはやけに静かな空間のように思われた。木陰になったそこは思いのほか涼しくて、ときおりゆるやかな風が吹いてきては彼女の長い髪をほんの少しなびかせた。
 僕は煙草に火を点けると、なんとなく言った。
「ねえ、ところできみは裕福なの?」
「わたしは裕福よ」当然じゃない、という感じで彼女は答えた。一旦喋り始めると彼女は思いのほか饒舌だった。「正確に言えばわたしの両親が、ってことになるけど。それも元をただせば祖父の代からだから、彼らもわたしもその恩恵を受けてるってことになるわね。だからもっと正確に言えば、わたしも両親もたまたま裕福な家に生まれたってだけのことかもしれない。わたし自身が裕福だって言うよりも」
 そこで彼女はひと息ついて、アイスティーをひと口飲むと、ストローでクラッシュアイスをかき混ぜながら言った。
「ねえ、あなたはいくつ?」
「四十」
 僕はちょっと顔をしかめて言った。僕は自分がもう人生の折り返し地点をまわったことにコンプレックスを抱いていた。答えながら、自分が酷く年寄りのように思えた。
「でも、若く見えるわね」
「見えるの?」
 僕は自分がまた同じ質問をしたことに、口にした後で気づいた。
「だから、感じるのよ」
 彼女はちょっといらいらしたように見えた。僕はなんだか自分が酷く間抜けなような気がし始めていた。彼女はちょっと眉をひそめて訊いた。
「結婚してるの?」
「前はね」
「どうして離婚したの?」
「さあ、どうしてかな。お互い若かったからじゃないかな」
 僕は吸い終わった煙草を灰皿に投げ入れた。それはジュッと音を立てて消えた。
「話したくないのね。誰にでもあるわよ、他人に話したくないこと」
 彼女はまるで僕と同年代か、それとも年上であるかのように言った。僕はなんだか見下ろされているような気がして、ちょっと嫌な感じがした。僕は悔しまぎれに訊き返してみた。
「きみにもあるの、話したくないこと?」
 彼女の手の動きが一瞬止まり、顔が凍りついたように見えた。僕はなんだか地雷でも踏んでしまったような気がした。
「ねえ、わたしみたいな人間は、話したくないことだらけなのよ。まるでそれでできているようなものなのよ」
 なるほど、と僕は思った。それはそうだろう。目が見えないと嫌なことはたくさん、それこそうんざりするほどあるのだろうな、と思った。僕はちょっと同情した。
「ねえ、もしかして同情してる? いま」
 僕はどきりとした。彼女は人の考えていることが分かるのだろうか? それは彼女の目となにか関係があるのだろうか? 僕は以前、友人に聞いた話を思い出した。それはテレビによく出てくる霊感が強いと言われている女性の話だった。友人の話によれば、彼女は事故かなにかで左目だけ極端に視力が落ちてほとんど見えなくなり、それ以来霊感が非常に強くなった、ということだった。
「正直言えば少し」
 僕が答えると、彼女は短く肩で溜息を吐いて、ほとんど氷だけになったアイスティーをストローでひと口すすると言った。
「しょうがないわね。いいのよ、別に。わたしは裕福に生まれついたのとおんなじように、同情される運命にあるのよ」
「その」僕はそろそろ気を使うことに疲れ始めていた。「訊きにくいことを訊くようだけど、その、生まれつき見えなかったの?」
「そうよ」
 彼女は口元に自嘲気味の笑みを浮かべながら答えた。僕はやっぱり訊くんじゃなかったかな、と思った。だいたい、それを知ったからといって、なにがどうなるというのだ? 僕はまた新たな煙草に火を点けた。
「ねえ」彼女の声に顔を上げると、彼女はテーブルに両肘をついて、少し身を乗り出すようにしていた。「あなたはなにをしている人?」
「ピアノ弾き」そこで僕は煙を吸い込んで吐き出してから先を続けた。「だったんだけど、いまは仕事がなくて途方に暮れてる」
「クラシック?」
「いや、スタジオ・ミュージシャンをやったり、歌手のツアーでバックをやったり。要するにその辺で流れてるくだらない音楽だよ」
「くだらないかしら?」
「いや、中にはくだらなくない音楽もあるけど。でも、芸術というよりはコマーシャリズムと言った方が正しいな」
「ねえ、手を出して」
 僕はちょっととまどったが、煙草を持っていない方の左手を彼女の前に差し出した。彼女は僕の手を両手で探り当て、それから僕の指をひとつずつ、関節を確かめるように指先でなぞった。
「綺麗な手」
 ぼそりと彼女が言った。僕は煙が彼女の顔に直接かからないように、ちょっと横を向いて煙を吐き出すと、ありがと、と言った。
「ねえ」彼女は僕の指を辿りながら言った。「あなたの奥さんは綺麗だった?」
「たぶん。一般的には。少なくとも僕にはそう見えた」
 見えた、と言ってしまったことを僕は内心しまったと思った。しかし、彼女は気にしている様子はなかった。相変わらずゆっくりと僕の指を辿っていた。
「もしかしてまだ愛してる?」
 彼女の指の動きが止まった。僕は少し考えてから答えた。
「いや、たぶんもうそういう存在じゃないと思う。別に嫌いになったわけじゃないけど。なんて言うか、僕らの距離は凄く遠くなっちゃったんだ」
「悲しい話ね」
「それほどでもないよ。よくある、愚かな話」
「愚か、ね。でも寂しい話よね」
「それはそうかもしれないな」
 離れたテーブルで子供の叫ぶ甲高い声が聞こえた。彼女はようやく僕の手を解放した。僕はもう一服深く吸い込んでから煙草を灰皿に捨てた。

 

「ごめんなさい」
 急に彼女が謝ったので僕は驚いた。
「わたし嘘をついた。わたしは嘘つきなのよ」
 彼女は真剣な顔をしていた。僕は彼女から訊いた話を思い出し、それほど深刻な嘘になる話があったかな、と考えた。
「ホントはね、生まれつきじゃないのよ」彼女はそう言うとちょっとうつむいた。それはまるで目が見える人の仕草のようだった。「高校のころまでは普通だったのよ。嫌な話なのよ、人には話せない。だから訊かれると面倒だから生まれつきって言っちゃうのよ、いつも」
「それでもいいじゃない、無理して本当のことを話さなくても」
 僕がそう言うと、彼女は顔を上げてサングラスの向こうから僕を見据えるようにして言った。
「でも、やっぱり嘘は嘘よ。ホントはわたしは話したいのよ」
「話したいんなら話せばいい。聞くよ」
「でもホントに酷い話なのよ。あなたはきっと軽蔑する」
 そう言うと、彼女の頬を大粒の涙が伝った。僕はなにか大変なことをしでかしてしまったような気がして、慌てて言った。
「ごめん、ホントにごめん、話さなくていいから」
 彼女は激しくかぶりを振った。僕は困り果てた。どうしたらいいのか分からなかった。また煙草を一本くわえて火を点けた。それから、思春期に突然目が見えなくなるということを考えた。それは想像以上に恐ろしいことだった。今度こそ、心の底から彼女に同情を覚えた。
「わたしね、レイプされたの」彼女はようやく落ち着きを取り戻すと、話し始めた。「学校の帰りに一番仲の良かったともだちと二人で渋谷のカラオケに行ったのよ。その帰りに三人組にナンパされたの。それがとんでもない奴らだった。車に乗ったら、高速に乗ってどこまでも行くのよ。首都高から中央高速に入って、どんどんどんどん。途中で不安になって、いったいどこまで行くのよとか、降ろしてよ、とか騒いだんだけど、へらへら笑ってばかりだった。そのうちともだちが泣き始めた。相模湖かどこかの出口で高速をやっと降りて、山道をどんどん入っていくの。街灯も点いてないような真っ暗な山道。やっと車が停まったのは、どこか空き地みたいなところだった。わたしたちは車から引きずり降ろされて、三人に代わる代わる犯された。何度も何度も。そのうち夜が明けてきた。奴らはへらへら笑いながら、ナイフを取り出してわたしたちのアキレス腱を両方とも切った。それからわたしは頭を何度も何度も蹴られた。何度も何度も。わたしはそのうち意識を失った。わたしが最後に見たのはどこかの山の中の、夜明けの空の色だった。綺麗な色だった。気がつくと病院のベッドの上だった。たまたま通りかかったトラックに見つけられたらしいわ。わたしは頭を包帯でぐるぐる巻きにされてて、そのときは自分がもう目が見えなくなってるってまだ知らなかった。目が覚めて、ともだちの名前を必死で呼んだのを覚えてる。ともだちが死んだって教えられたのは、頭の包帯が取れたころよ。それと同時に自分の目がもう見えなくなったってことに気づいた。もう半分気が狂いかけてた。アタマの中がまともになるには随分時間がかかった。なんとか歩けるようになるまで、病院のベッドの上でひたすら時間が経つのを待ってた。一日の時間が感覚でつかめるまでは、ホントに気が狂いそうだった。いつまで経っても一日が終わらないようで。後で聞いたら、二週間ぐらいは誰とも口をきかなかったらしい。なにを訊かれても。ただただ怖かった。夢だけは繰り返し見た。皮肉なことに、病院ではあの山の中の光景ばかり夢に見てた。普通の夢を見れるようになったのは、退院してしばらくしてからよ。退院した後も、わたしは極度の鬱とPTSDになって、精神科から抗鬱剤と安定剤をもらってた。寝るときは睡眠薬がないと眠れなかった。夢を見るのが怖くて。結局、犯人は捕まらなかった。ともだちの母親は地下鉄のホームから飛び降りて自殺した。わたしは人が怖くて外にも出られなかった。実際、よくここまで回復したなと自分でも思うよ」
 そこまでひと息に話すと、彼女は両手で顔を覆った。僕は声が出なかった。ただ彼女を見つめているしかできなかった。彼女は顔を覆っていた両手を解くと、弱々しい笑みを浮かべて言った。
「ね、酷い話でしょ」
 僕は手にした煙草がフィルターまで燃えて、とっくに消えていることに気づき、灰皿に捨てた。テーブルの傍らを通り過ぎる客たちに、自分が泣いていることを悟られないように、うつむいたまま僕は答えた。
「ああ、ホントに酷い話だ。僕がこれまでに聞いた中で一番酷い話だ」
 突然手が伸びてきて僕の髪に触れた。そして、その手はゆっくりと顔に下りてきて、指が僕の顔をなぞり始めた。
「ねえ、泣いてるの?」
 僕の目の辺りに指が辿り着いて、彼女が尋ねた。僕は答えずに黙っていた。指は僕の鼻の線をなぞり、その下の固く結んだ唇をなぞった。それから両手で僕の頬を包み込むようにすると顎の先まで降りてきた。
「髭が生えてるのね。痛い」
「ごめん」僕はようやく言葉を発した。
「あなたはハンサムね」
 僕の顔を挟みこむようにしたまま、彼女は言った。
「ただのくたびれた中年男だよ」
「それとハンサムなのは別よ」
 彼女はようやく僕の顔を解放すると、そう言って笑った。ホントに楽しそうに。僕は片手で目を拭うと、もうただの氷水になっているオレンジジュースの残りを飲んだ。僕には訊きたいことがあった。
「ねえ、付き合っている人はいるの?」
 彼女はくすっと笑って答えた。
「だったら、こんな天気のいい日曜日の午後に、ひとりでこんなところにいるわけないじゃない。あなたは?」
「ときどき、僕なんかと付き合う女の子はもう一生現れないんじゃないかと思うんだ」
 彼女はまたくすりと笑った。僕は真顔で続けた。
「いや、ホントにそう思うんだ、マジで」
「ヘンな人ね」
「ホントにこのところの僕はまったくツイてないんだ。びっくりするくらいに。いったいどうしたんだってぐらいにいいことがないんだ」
 僕は思わずちょっとむきになって言ってしまい、言い終わってから恥ずかしくなった。
「ごめん、でもきみほど酷い目にあったわけじゃない」
「ねえ、悪いことばかりじゃないわ。タマにはいいことがあるわよ。今日のわたしみたいに」
「今日のきみみたい?」
「あなたに会えたもの」そう言って彼女は微笑んだ。「あなたは優しいもの」
「そうかな」
 僕は本当にそうかな、と考えた。自分が優しいなんて考えたこともなかった。僕は本当に優しいのだろうか? 僕はこれまで自分をただの自堕落で、自分勝手で、弱い人間だとばかり思っていた。いつも自分のことを考えるのに手一杯だった。少なくとも、自分の人生に対しては、半ば投げやりになっていた。
「わたしは滅多に外に出ないのよ。怖いから。でも、一日中部屋に閉じこもっていると、このままわたしはひとりで年を取って死んでしまうのかなって思ってもっと怖くなる。わたしは自分を見ることができないから、年を取るのが怖いの。でもあなたを見てると、見えないけどこの場合は見てるとなのよ、四十ぐらいになるのも悪くないかなって思えてくる」
「きみの目が見えてたら、きっとうんざりするよ、僕なんか」
「そういうひねたところは少年みたいね、少年。まるで思春期の」
「そういうのって嫌にならない?」
「悪くないわ」
「きみはいくつなの?」
「二十七」
「もっと全然若いかと思った」
「ありがと」
 僕は本当に驚いた。もしかしたら彼女の時間はどこかで止まってしまっているのかもしれない、と思った。
「お願いがあるの」
「なに?」
「傘買ってきて」
「傘?」
「もうすぐ夕立になるから」
 僕は空を見上げた。いくつか雲は浮かんでいるが、半分以上を青空が占めていた。どす黒い雨雲らしきものは見当たらなかった。相変わらず陽射しはそこらじゅうを炙るようだった。どこから見ても雨が降りそうには思えなかった。
「でも、晴れてるよ。がんがんに」僕は言った。
「わたしには分かるの。信用して」
「分かった」
 僕は肩をすくめると席を立った。店内に入ると、まずトイレで顔を洗った。鏡を見てさっきちょっと泣いてしまった痕跡がないことを確かめると、それから雑貨を置いてある二階に上がり、安いビニールの傘を買った。
 席に戻ると、彼女がはい、と千円札を出した。僕は今度は素直にそれを受け取った。
「ねえ、そろそろ行きましょう、降ってくる前に。あなたはどっち? 坂を上る方? 下る方?」
「下る方」
「じゃ、一緒ね。よかった」
 彼女はそう言って微笑んだが、もし彼女が坂を上ると言えば、僕もそうするつもりだった。どうせ僕には急いで行くところなどどこにもないし、なによりもう少し彼女と一緒にいたかった。
 立ち上がると、彼女は思ったより身長もあって、すっと背筋を伸ばしてとても姿勢がよく、白い杖さえついていなければモデルかなんかに見えた。彼女は僕の二の腕を掴むと、ぎゅっと力をこめた。
 僕らは腕を組んで店を出た。歩き始めると彼女はかすかにびっこをひいていた。僕はそのペースに合わせてゆっくりと歩いた。坂を下りながら空を見上げると、みるみるうちに黒い雲が空を埋め始めた。僕にはそれがモーゼが起こす奇跡を見ているように思えた。そして、信号待ちをしているあいだに、とうとうぽつぽつと雨が落ちてきた。彼女は嬉しそうに、ほらね、と言った。僕がさっき買ったばかりの傘を広げると、途端に叩きつけるような勢いで大粒の雨が降り始めた。周りの傘を持っていない人達は慌てて軒先目指して走り始めた。僕らは傘の下で肩を寄せ合った。僕はそのときにふと、お互いにまだ名前も知らないことに気づいた。僕が彼女の耳元に口を寄せて「ねえ」と言うのと、彼女がこちらを向いて「ねえ」と言うのが同じタイミングで重なった。僕らは顔を見合わせて笑った。
 そして、信号が青に変わった。

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