how to write

「小説の書き方 その2 文体(続き)」

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前回あんな感じで書いて、一番最近書いた自分の小説を読み直してみると、実に比喩が多いことに気づいた。それも直喩。だから、「〜ような」という表現がやたらと出てくる。これも村上春樹の影響なのかなあ。

最近読んだ本というと、町田康の新作「パンク侍、斬られて候」。タイトルからして分かると思うが、大体予想通りの内容。オルタナな小説である。無茶苦茶と言えば無茶苦茶。破壊しつくしてしまうラスト。難を言えば、町田の作品に共通するのだがルビがない。そのくせ当て字やらなにやら全開で、人物の名前ひとつとっても、なんと読むのか分からない。意図的なのかなあ。だろうなあ。しかし、気になってしょうがない。前に読んだ小説にも「躑躅祭り」(だったかな?)ってのが出てきて、はて、なんと読むのだろうかと思いながらとうとう分からず、ずいぶん後になって「つつじ」と読むことが判明した。こういうのって、読めないことに意義があるとは思えないのだけれど。それに彼の文章特有のスピード感を削いでしまうことにもなる。どうにも意図が分からん。

で、次に読んでいるのがサマセット・モームの「月と六ペンス」で、これまたずいぶんと違うものを読んでいるわけだが、ネット上で絶賛している人がいたので読んでみることにしたのだった。モチーフになっているのがゴーギャンということで、別にゴーギャンにもタヒチにも興味のない僕にとっては、いささか敷居が高かったのだが。しかし読んでみると、素晴らしい文章。まず、比喩(直喩)が極端に少ない。無駄な修辞というものがほとんどない。かと言って前回のエルロイのように簡潔過ぎるということもない。無駄がない、ということと意図的に簡潔な文章というのは違うということだ。比喩が少ないということはしばらく読み進まないと分からない。つまりそれを感じさせないのである。大袈裟な表現は皆無だが、的確で巧妙な描写によって、光景や人物の性格といったものが、アクションの積み重ねで鮮やかに表現されている。まるで映画を見ているようである。これはある意味理想的な文体だなあと感心することしきり。

とここに至って、前述の自分の文体をかえりみて、やはりちと比喩が多すぎるなあと改めて考えさせられたのだった。文章自体を楽しむ、もしくは楽しめる文章を書こうとするということは、ともすると過剰な演出になってしまうのである。つまり、映画で言えばCGやスローモーションを多用しているようなものである。もしくは、リドリー・スコットの「デュエリスト」のように、映像の美しさに固執するあまり、映画自体が退屈なものになってしまう、というような。もちろん、映像も美しく、映画自体も面白い、というものになれば一番いいわけだ。

もちろん、ヴェルレーヌの有名な「巷に雨の・・・」という詩のように、比喩を繰り返すことによって得られる世界、修辞によって成り立つ作品というものもある。だがこれは飽くまでも詩というスタイルであるから成立するわけであって、小説ではまた違うと個人的には思う。要するにプロモーション・ビデオと映画の違いのようなものだと。極端な例えではあるが。

もうひとつ、文体・スタイルと言えば、会話の表記、もっと具体的に言えば句点、つまり「。」の使い方も瑣末ながら気になるところではある。要は会話文の終わり、かぎかっこの前に句点を入れるか否か、というようなことである。最近の例で言えば、話題の綿矢りさなどは「」の終わりに句点(。)を付ける。しかし、確か高村薫だったと思うが、「」の中に句点を付けていたところ、編集者に取るように言われた、というようなインタヴューを読んで以来、僕自身は付けない癖をつけている。実際、その方がすっきりするような気がするし、一般的には付けない。だから、前述の綿矢りさのように会話文の最後に句点が付いているとどうも気になってしょうがない。モーニング娘。の「。」を思い出してしまうのである。なにやら余計な意図があるようで、気になるのだ。他にも句点を付ける作家は結構いて、福永武彦とかも確かそうだった。車谷長吉に至っては、初期の作品には付いていなかったが、途中から付くようになった。これなどは明らかに意図的である。どうでもいいっちゃどうでもいいことなんだけれど、個人的にはやはり読みやすいに越したことはないと思うのだが。

まあいずれにしても文体というもの、それ自体が自己主張であり、自分が何を表現しようとするか、何を意図しようとするか、ということに尽きるのだとは思うが、読み手にとってはバランスというものが案外と気になるものなのである。つまり、(文学)作品というのは伝わってなんぼというものでもある。読み手を意識する文体と書き手である自分にこだわる文体。そのバランスをいかにとるか。というところで「月と六ペンス」に戻ると、この作品の主人公である天才画家は、自分の作品を自己の発現としか考えていない、まったく利己的な人物である。一方、対照的な人物として、他人に尽くすことをいとわず、絵も売れるが才能はない、という画家も登場する。いったい、こうなると芸術とは果たしてなにか、というような議論にまで事が及ぶ気がしてしまうが、語り手としての「僕」はその二人の中間に位置する存在のようにも映る。つまりは、語りたいのかどうなのか、という問題かもしれない。ただ自分に内在するものを発露したいのか、それとも誰かに伝えたいのか。自分の欲求の赴くままに表現したいのか、それとも誰かを動かしたいのか。

およそ予想通り、収拾がつかなくなってきたけれど、結局のところ、無駄は省かなければ、ということなんだと思う。無駄=必要でないもの、である。なんにせよ、必然性が必要なのだ。とりあえず目指すべきは、必然性のある文体、というところだろうか。

written on 4th, apr, 2004

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