time is money vol.4

「僕がパチンコをはじめたころ」

光陰矢のごとし,,,

僕が最初にパチンコを打ったのは高校生のとき。当時僕はテニス部だった。田舎なので軟式だったが、中学のころはいちおう真面目にやっていて近隣の町にもちょっとだけ名は通っていた。でも本番に弱くていつも肝心なところでは負けてたけど。高校に入るとそれまでクラシックとビートルズ一辺倒だった僕はロックに目覚めてバンドをはじめたので、テニスの方はおざなりになっていた。そのテニス部で一番うまかった奴がちょっと悪いヤツで、こいつにパチンコ屋に行こうと誘われたのが最初だ。

そいついわく、パチンコ屋に行けば度胸がつくのでテニスにもいい影響を与えるという...ものは言い様だ。幸い僕の学校は70年代の学生運動のあおりで私服だったので、二人して授業をさぼって山形市の郊外にあるパチンコ屋に行った。なるべく学校から離れたところを選んだのだろう。当時は全部手打ちのチューリップ台ばかり。なぜかビギナーズラックでちょっとだけ勝ってしまった。その時の両替用の景品はいまでもはっきり覚えているが、「味一番」という味の素のまがいものみたいな袋入りの調味料(みかけもそっくり)。一度勝ってしまうとあとはお決まりのコースで、学校の帰りに市内のパチンコ屋にしばしば出入りするようになった。これが不思議なほど負けない。もちろん当時は釘など全然読めなかった。一度だけ牛次郎の書いたパチンコの本を読んでほんとに基本的な釘の読み方は勉強したのだが、店ではほとんど釘など見ていなかった。ちなみに先日田山さんもむかし牛次郎の本を読んだと書いていたので、多分同じ本だと思う。

当時ほとんど負けた記憶があんまりないのには理由がある。僕はほとんど何時間でもブッコミに正確にしかも速く同じ強さで打ち続けることができたから。僕はもともと指先が器用だったうえに(うちはもともと彫刻をやっていた家系なので血筋かも)、幼稚園のころから小学校までピアノを弾き、中学校から始めたクラシックギターではプロのミュージシャンになろうと毎日数時間の練習をしてきたせいだ。楽器を弾くうえでの指先の微妙なタッチや反復練習に比べれば、たかだかブッコミに打ち続けることなど楽なものだった。そんな訳で学校の不良仲間には僕が負けるのを見たことがないと言われて、当時はいささか天狗になっていた。(ちなみに僕自身は不良ではなかった。パチンコをしたり、煙草を喫ったり、授業をさぼって喫茶店にいたりする程度...やっぱり不良になるのかな...文系クラスでは優等生だったんだけど)

このころで印象的だったのは、駅前のパチンコ屋で打ち止めにして玉を流しているときに体育の先生と一緒になり、「よく出したなあ」と誉められたのだが、翌日一緒に打っていた札付きの友人だけ呼び出されて停学処分になり、僕は全くお咎めなしだったこと。というのも僕の父は長年地元で高校の教師をしていて、僕の学校の先生連中も大半は父の知り合いだったりしたから...へんなとこで恵まれてたなあ。

天狗になっていた僕だが、大学に入って東京に出てきた途端に勝てなくなってしまった。原因は電動ハンドルの登場。要するに釘読みができない分、打ち方の技術で他の人と差をつけることが難しくなってしまったのだ。中野のパチンコ屋でシマの半分が電動ハンドルになってしまった日は本当にショックだった。そういえば最初のころは電動ハンドルと手動ハンドルが両方ついている台というのもあった。これは手動で打つと、バネが重くて非常に打ちにくかった。その内に最初のデジパチと羽根物が登場してパチンコ自体はおもしろくなって、大学時代はほんとによく通ったものだ。学生時代はほとんどバンドとパチンコしかやってなかった印象だ。でも学生時代はずっと負け組で、いつも金がなくてピーピーしていた。大学を卒業してからのその後十年はほとんどパチンコを打つことはなかった。だから僕は連チャン機全盛の時代や、攻略法全盛の時代のパチンコはほとんど知らない...

ちなみに学生時代に毎日のように通っていた高円寺のパチンコ屋が、数年前新聞かなんかでいまだに羽根物ばかりのパチンコ屋という記事になって出ていた。僕はちょっと懐かしくなり久しぶりにそのパチンコ屋に行ってみた。ホントに半分以上羽根物で僕の通っていたころとほとんど変わってなかった。一発も打たなかったけれど、ちょっとうれしかった...

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