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さる出版社による講評 ―「ホリデイズ」「幽霊譚」―


もう何年も前のことになるけれど、大手の出版社はすべて原稿の持ち込みお断りとあるので、持ち込みOKの小さな出版社に「ホリデイズ」と「幽霊譚」の原稿を送ったことがある。一応新聞に広告とか出しているところなので、小さいとは言ってもそんなに怪しい会社ではないだろう、ということで。で、初めて編集者から講評というものを送ってもらった。そんなわけでこの紙っぺら1枚を大事に保存すべきかどうかと悩むのもなんなので、一応ここに転載しておくことに。原文のままですが、一応ネタバレのところだけ伏字にしておきます。以下がその全文。

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◆『ホリデイズ』は、運命的に出会った女に恋をした青年が巻き込まれる事件を描いた作品である。軽妙な、ミニマリスティックな文体によって、都市生活者の倦怠感と人生に対するある種の諦観を浮き彫りにしていく。現代人の多くがそうであるように、砂漠のような人生の中のオアシスとして恋が突然現れ、語り手の人生を加速させるその高揚や不安を鮮やかに掬い取って読み応えがあった。
◆恋愛小説の柔らかな雰囲気で進んでいく本作だが、語り手の前に探偵の高杉が現れる辺りから一変する。謎めいていた女の素性が明らかにされ、恋する女の窮地を救うべく語り手の奮闘が始まるのだ。女の行方と謎を巡るミステリアスな展開は、スリリングな興奮とサスペンスフルな緊張感を絶えず漲らせ、謎と暴力、復讐、憎悪、憤怒、そして愛が随所に織り交ぜられたハードボイルドな世界観には魅力がある。
◆ただ本作では「やれやれ」という語り手のぼやきが頻繁に挿入されている点が気になった。文体が村上春樹のパスティーシュであることを表明するために意図的に組み込んでいるのだろうが、現在では村上春樹の「やれやれ」は一部の読者から揶揄の対象にされていることもあり、頻繁な挿入は避けた方がよいと思われた。
◆『幽霊譚』は、幽霊に恋をしてしまった青年の葛藤を描いた、現代の「幽霊譚」そのものである。女の幽霊や妖怪に魅入られる男、というモティーフは古くは伝承や民話などでも繰り返し描かれてきたが、現代を舞台に青年と幽霊との恋愛をストレートに描いた本作は逆に新鮮であった。語り手の前に突然現れ、自らを幽霊と言うテンコの正体を巡るミステリー、或いは行く先々で女に好意を寄せられる男の悲喜劇を描いた女難コメディなど、様々な要素を自然な形で融合せしめている点を高く評価したい。
◆本作で特筆すべきは、物語の中心を貫く純愛劇という要素であろう。元より、人間と幽霊という本来重なるはずのない存在同士の恋愛だけに、人間同士の恋愛ならば当たり前の些細なことが、思いがけない障害となって両者の間に立ち塞がる。そうした現実が、哀切感や夢幻的なニュアンスとなってしばしば行間から滲み出ているが、その割に作品全体に陰鬱な気配を感じさせない。それはなんと言っても、この物語が悲恋を描く悲劇としてではなく、心に傷を持つ青年の再生と成長を描いた喜劇として語られているからにほかならないだろう。語り手が募らせる苦悩や葛藤に、読み手の持つ恋愛や性愛に対する認識を揺さぶる異化作用が効いている点も秀逸であった。
◆しかし、最後に登場するXXXXに関しては些か疑問に感じた。XXの存在に関する伏線らしい伏線もないため唐突であるし、何より語り手とXXの未来を感じさせる幕切れは、語り手に対する軽薄な印象を残しかねない。語り手のテンコへの純粋な思いを際立たせるためにも、XXのくだりは削除するのが望ましく思われる。
◆以上忌憚のない意見を述べたが、いずれも実力派による確かな手応えを感じさせる作品であった。具体的な方向性について編集者と検討し、ブラッシュアップを経て世に送り出されることを期待したいものである。
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てな感じで、小説を書いた当人よりも深い分析(笑)をしているところとか、一読してプロの編集者の文章だと分かる。なんかこれだけ読むと褒めちぎられてるみたいだが、実際のところ、この後この出版社からは共同出版という形を提案され、それはたったの500部を刷るのに僕が大枚250万を出費する、というもので、要するにそういう商売をしているところの営業トークの部分がかなりあるのだろう。250万も出して(そもそもそんな金持ってない)最大で500人しか読めない、というのはあまりにも非現実的でお笑い種だ。そんなことで経済的損失を食らうぐらいなら、タダで1000人に読んでもらったほうが遥かにマシというもの。別に金儲けや名誉欲のために書いたのではそもそもないから。僕はただ、面白い話を書きたかっただけだ。それに、一人でも多くの人に読んでもらって感想をもらいたかった、というのが正直なところ。

この講評で気になるのは、まず、「ホリデイズ」の中で「やれやれ」がそんなに頻繁に出てくるだろうか、ということ。どうもこの文章を書いた人は「やれやれ」に対して過敏になっていると思われる。それに、僕の「やれやれ」は村上春樹の影響ではなく、チャーリー・ブラウンとスヌーピーが出てくる漫画、「ピーナッツ」で訳者の谷川俊太郎が「I can't stand.(やってられんよ)」というチャーリー・ブラウンのぼやきを「やれやれ」と訳したことの影響。っていうか単なる口癖。文中のパスティーシュは模倣の意。もちろん僕にはそんな意図はない。が、村上春樹の登場をリアルタイムで体験した僕らの世代で、村上春樹の影響を受けていない物書きなんていないと思う。もちろん、村上春樹を読んでない人を除いて。

「幽霊譚」に関してはなんか物凄く深読みしているようで(異化作用ってなんだ?)、最後のセクションを削除した方がいい、というのはまったくびっくり。唐突なのはむしろこの人の意見。伏線がないと言っているが、それまでのすべてが伏線であることがなんで分からないんだろう? 最後があるのとないのとでは小説全体の奥行きや構造、読後感そのものが変わってしまう。実際、書いた直後に読んでもらったIまみちくんは最後のところでカタルシスを覚えたと言ってくれたし、I泉さんも最後があった方がいいと言っていた。ま、この辺は人それぞれなんだろうけど。単に僕の筆力不足なのかも知れない。


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