rain

「レイン」

...

どこで道を間違えたのか、気がつくとあたりは見知らぬ風景だった。どこにでもある住宅街であるが故にどこでもない、そんな感じの。薄曇りの空の下、街もやっぱりどんよりとして見えた。この街に引っ越して以来、東西南北というものを気にしたことがないので、僕の進むべき道は360度あらゆる角度にベクトルが放射して、おかげで自分が方向感覚というものをすっかり失っていることにようやく気づいた。どこにでも行けるが故にどこにも行けない。まあしかし、少なくともここはサハラ砂漠の真ん中ではないのでいずれはどこかにたどり着く。時間もたっぷりある。あるはずだ。急に不安を覚えてG-SHOCKで時間を確認する。4時を回ったところだ。約束の時間は5時。まだ1時間近くある。それだけあれば十分だ。最悪、誰か通りすがりの人に道を尋ねてもいいが、街はしんと静まりかえって人っ子一人いない。目の前のいかにも建て売りの一軒家の軒先にどう見ても雑種である風采の上がらない犬が憂鬱な顔をして寝そべり、僕に向かって吠える気配もない。犬すらも押し黙っている。どうしてこんなにひと気がないのだろう、と僕は思う。確かに今日は平日だが、誰かしら、例えば学校帰りの子供とか、暇を持て余している老人とか、買い物に向かうおばさんとか、そういう人たちがいてしかるべきだ、と思う。だが、ここにはそのしかるべき人たちがいない。そういえばさっきから車の一台も走っていない。まるでこの星から僕以外の人間がすべていなくなってしまったようだ。かといって、ゴーストタウンのようにも思えない。確かにどこにでもある風景なのだ。ただ人がいないだけで。

誰もいないところに行きたい、と僕はときどき思っていた。誰も僕を知らないところに行きたい。出来ることなら行方不明になりたいと。そうするとこれはもしかして僕の願望が具現化したということなのだろうか。それとも白昼夢って奴か。しかし、僕が願っていたのはこんな色を失った殺風景なところではない。もっと色が満ち溢れ、何かが息づいているところだ。確かな温度を感じるような、風が木々の梢を揺らすような、あらゆる植物が光合成をするような、そんなところ。

目の前のアスファルトに遠近法を利用して「スクールゾーン 7:30−8:30」と書いてある。すると近くに学校があるはずだ。じゃ、なんで子供がひとりもいないんだ。正直言って僕は子供が嫌いだ。あの有り余る元気、テンションが嫌いだ。それは僕にないものだから。だが、こうしていざ誰もいないとなると、風景のパーツとしての子供のひとりぐらいはいてほしい、などと思う。一体どれぐらい僕は人を見かけていないのか。5分か10分か、それとも30分か。いずれにしてもたいした時間ではないはずだ。何の不思議もない。誰も通らない時間があって当たり前だ。ここは渋谷でも竹下通りでもないのだから。

気がつくと煙草を吸っていた。一体どれぐらい僕はここに立ち止まっていたのか。もちろんG-SHOCKを見れば分かるが、5分おきに時計を見るような人間にはなりたくない。大丈夫、まだ時間はある。残されている。道なりに歩き始めると信号のある交差点に差し掛かった。信号は赤。しかし、誰もいないし一台の車も通らないのだから何の意味もない。問題はどちらに進むかだ。恐らく一番堅実なのは後戻りをして見覚えのあるところまで戻ることだろう。しかしそれではいかにも無駄な時間を無為に過ごしたような気がする。かといってこのまま訳も分からずに進んでどんどん間違った方向に進んでしまうのも嫌だ。信号を渡ったところに5階建てのマンションがあり、その前にこぢんまりとした公園のようなスペースがあり、ベンチがある。あそこで一服して考えるかな、などと頭をよぎるが、どうもそれではまるで徘徊癖がある呆けた老人のような気がする。やはり正しい選択は戻ることだ、と僕は決める。溜息のような煙を吐き、踵を返して戻る。こうして風景は180度回転したわけだが、相変わらずどこでもないという感覚は抜けない。短くなった煙草を足元に放り投げてリーボックで踏みつける。歩きながら尻のポケットから携帯を取り出し、彼女に電話をする。呼び出し音が繰り返し鳴り、やがて機械的な留守電のメッセージが聞こえる。僕は電話を切る。

なんだかすべてが予定調和のように思えてくる。すべては仕組まれているのだ、などという考えが頭に浮かぶ。一種の被害妄想か。大の大人が道に迷ったぐらいで不安で平静を失ってどうするのだ、と自分に言い聞かせる。大丈夫、ここはユーラシア大陸でもグリーンランドでもマダガスカルでもない。すべては高が知れている。もしそんなことがあったらだが、丸一日迷ったとしても24時間だ。24年ではない。馬鹿げている。民家の塀の上に、セキレイが一羽止まっていたが、僕が近づくと音もなく飛び去った。

そのうち、雨が一滴ずつ落ちてくる。傘を持っていないが、傘を差すほどでもない。ただ心なしか世界はますますどんよりと色を失ってどこかに沈んでいく。光が少しずつ失われていく。いまだに車一台通らないし誰も歩いていない。僕の中の違和感はごく自然にアンプリファイアされていく。もう一度彼女に電話しようか、と思う。しかし、間違いなく留守番電話のメッセージが聞こえると確信している僕がいる。僕は取り残されつつある。あらゆるものから。確かにあったはずの目的がどんどん遠ざかり、輪郭を失っていく。雨は次第にその粒を増していく。その数だけ僕の憂鬱は増す。こんな風に世界は正比例して、何も間違っていないのだと言い張る。雨が本降りになってきた。気がつくと僕はすっかりびしょぬれだ。酷い、まったく酷い話だ。どうしてこうなったのか、考えるだけ憂鬱が増すだけだろう。考えるな。ただ歩け。戻ろう。僕が歩き始めた場所へ。誰かのいるところへ。雨はひたすら世界を塗りつぶしていく。

written on 4th, mar, 2011

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