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「昼寝の功罪」

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昼寝が嫌いだ。何故なら、毎日昼寝をしているからだ。特に嫌いなのは、夜の昼寝だ。昼寝をしていいことってなんかあるのだろうか。それで健康にでもなるというのか。僕の場合、特に最近の僕の場合、昼寝をする理由は何もすることがないからである。つまりただの時間の消費、人生の消費に他ならない。夜の昼寝の場合は特に、かえって身体がダルくなるし、いたずらに眠気が増してしまうし、果ては目が覚めたときに今が朝なのか夜なのか分からなくなる。果てしなく頭がぼんやりする。もちろん身体もぼんやりする。なんだか昼寝をするたびに自分の輪郭がぼやけていくようだ。もしかして寝ている間に脳細胞が死んでいるのではないか、という疑問すら抱く。

もちろん最近の僕がやたらと昼寝をする、つまり何もすることがないというのはうつ病という病気のせいである。しかし、僕にとっての昼寝とはもちろんそれだけではなく、僕には僕の、昼寝の歴史というものがある。思い返してみれば、音楽業界の現場にいたころは昼寝なんてものはしなかった。それどころか、ひたすら目がらんらんとしていた。16時間ぶっ続け労働なんて当たり前だった。しかし30歳を過ぎて、1年だけゲーム会社に勤めたとき、すなわち僕が生まれて初めてスーツにネクタイをして9時半の定時出勤をしてタイムカードなるものを押していたころ、僕は止むに止まれず昼寝というものをせざるを得なかった。ゲーム業界というのも初めてだが、要するに真っ当な企業の真っ当なサラリーマンというものを経験したことがないから、日中の業務というもの、皆が黙々とパソコンに向かって延々と作業をし、誰も一言も発しないという環境に置かれたとき、僕を襲ったのは物凄い睡魔だった。昼休み後の午後のひととき、とにかくもうどうにもならんくらいに眠くなった。もう寝るなという方が無理、というような睡魔。そもそも僕は遅刻の日本記録を毎日更新していたし、通常の勤務中もしょっちゅう廊下に出ては煙草を吸っていたし、机にいる間も延々と開発中の競馬ゲームで遊んでいたし、まあ会社から見ればまさに無法者であった。そんな僕が突然の睡魔に襲われてそれを我慢出来るわけがない。僕は無言でオフィスを出ると、会社の裏手に向かって歩いた。そこはちょっとした丘陵になっていて、何棟かのマンションが立っていた。僕はその小高い場所にある公園のベンチに横になった。太陽は燦燦と降り注ぎ、人の気配もなく、辺りは静寂が満たしていてまったくもって昼寝してくれといわんばかりの陽気だった。僕は30分ばかり眠った。目が覚めると頭はすっきりしていた。何の罪悪感もなく、むしろこれこそが合理性なのだ、とでも言いたくなる気分だった。僕はもちろん無言でオフィスに戻り、そして当然の如く誰も僕の行動を気にしていなかった。ああこれが企業というもの、社会というものなんだ、と僕は思った。それが本質を見たのか単なる勘違いなのかは分からなかったが、とにかく真っ当なサラリーマンというものは退屈なものだなあと思ったことは確かだ。

このように、昼寝というものは必然から生じたものはそれなりに効果はある。集中力が低下したときは昼寝をした方がずっと効率が上がる。僕が最後に雇われていたモバイル関係の会社では僕はいわゆる中間管理職だった。このときも僕はゲーム会社にいたときの経験を利用して、しょっちゅう神社の隣にある公園のベンチで業務中に昼寝をした。なにしろ中間管理職というものは責任だけはやけに背負わされるが普段はとにかくヒマなのである。本格的なうつ病になるまでの僕にとっての昼寝の位置づけというものはこれら就業中の記憶の中にしかなかった。つまり、仕事の効率を上げるための小休止といったものだ。その本来の目的は一時的な睡魔を追い払うことと自分をあらゆるストレスから一時的に解放するためのものだった。ところが、うつ病というよく分からない病気になってからというもの、僕にとっての昼寝の意味はまったく違うものになった。

一番大きな理由は病気の症状が酷くてそれを治めるため、苦痛から逃れるため、精神をリセットするためだ。だからいつの間にか僕の中では「昼寝=うつが酷い」という方程式が出来上がってしまった。うつ病というのは気分障害であり精神疾患であるので、自生思考が暴走を始めたりするともう意識をなくす以外それを止めるすべがない。だからこれももちろん必然ではあるのだが、あまりよろしくない必然なのである。まあこれも一応よしとしておこう。よろしくないのは別に眠くも苦しくもなんともないのに、ただすることがないから寝てしまう昼寝である。これもうつ病という病気の副産物だ。うつ病というのはしなければならないと分かっていても出来ないという病気である。なにしろ気力というものがない。興味も関心も好奇心も著しく低下する。アクティブというものからひたすら背走しているような病気である。昼寝というのは、まさにその病気を象徴しているような行為だ。だから僕は昼寝をするたびに自分の存在というものが薄くなっていくような気がしてしまうのだ。なんていうか、世界において自分が存在しているということから一時的にリタイアしてしまう行為である。こういう昼寝は実に気分が悪い。単純に一日というものを省略しているようでもあるし、マジに身体的にも精神的にもかえって調子が悪くなる。昼寝をするたびに、ああまたそもそもほとんどないバイタリティとか生命力というものが落ちた気がする。おまけにこういう昼寝をするたびに本物の睡眠時間が短くなる。以前かかっていた医者も言っていたが、睡眠時間というのは寸断されていても足し算で足りていればいいらしい。だから最近の僕はやたらと早起きだ。7時半には必ず目が覚めてしまう。僕がすっかり朝型の人間になったと言っても昔の僕の知り合いは誰も信じないだろう。大体、早起きは三文の得と言うが、早起きをして得をした試しがない。ただ呆然と過ごすだけである。なんら生産性というものがない。むむむ、これではまるで老人ではないか、と思う。どうしたらこの昼寝の呪縛から逃れることが出来るのだろう。答えは案外簡単だ。何かをすればいいのである。しかしこの、「何かをする」ということが今の僕には非常に難題なのだ。なにしろ頭の中はカラハリ砂漠の真ん中のように何も無く、欲望のかけらすら見つからない。何かをすることの意味を見つけることにすら四苦八苦する。まあなんだね、こういう人間は禅寺にでも行ったほうがいいのかも知れない。

む、いつの間にか長文になっている。たかが昼寝のことについてこれだけのものを消費するなんて実に馬鹿げている。不毛だ。昼寝というまったく非生産的な行為から生産してしまったこれらの文章に一体何の意味があるのだろうか。こんなことに頭を使うのであれば、何かもっと生産的なことに頭を使うべきだ。とは思うものの。

written on 7th, mar, 2010

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