music vol.9

「ある巨匠」

これアップするの勇気いるなあ。チクったらダメよ...

その大先生はおそらく30代以上の人で名前を知らない人はいないと思われる歌謡曲の作曲家である。僕がリンクしているKTさんとたまたまイニシャルが同じでKTさんの苗字とも同じなのだが、親戚と言うことはありえない。なぜなら大先生はペンネームだからである。

大先生はもうかなりのお年である。曲の打ち合わせは大抵某有名ホテルでお湯割を飲みながら。いつも神経質そうに細い指を動かしている。

業界の連中は大先生がヘソを曲げないようにいつもピリピリしている。F1レーサーと結婚したアイドルがまだ中学生でデビューしたての絶頂期のとき、大先生の目の前で「わたしこの曲嫌い」と発言したときは、スタジオ全体が凍りついたという。

大先生は締め切りの30分前ぐらいにデモテープを作る。おかげでヤマハのシンセかなんかで作るそのデモは、あわてて弾いているせいか、ワンコーラスに2・3箇所は間違っている。しかし、大先生は直したりしないのだ。巨匠だから。

大先生は50を過ぎてから免許を取った。しかも合宿免許である。ひとりではさみしいので業界の同年代の管理職をひとり道連れにした。なにしろ大先生なので、免許を取りたてとはいえ、初めて買った車もポルシェの911である。しかし、左ハンドルのマニュアルというのは巨匠とは言え無理があったらしく、3日で全損してしまった。本人曰く、「僕、器用じゃないから」。巨匠である。

僕が大先生と初めて仕事をしたのは、最近また復活したS年隊というアイドルである。先生が持ってきた曲はなにやら妙な曲である。しかし、僕がマネージメントしていた編曲家は売れそうなのでやけに力を入れてレコーディングしていた。リズムセクションが録れたあたりで、事務所のディレクターが詞が出来たといって持ってきた。タイトルは「Dメロン伝説」。ものすごいタイトルと内容である。でも売れた。

2度目に女性アイドルの仕事をしたときは、大先生は遅れてきた。大先生がスタジオに来たころには、もう生のリズムセクションを録り終えていた。ところが、大先生はテンポを10早くして16小節ぐらい短くしたいと言い始めた。その場の全員が目が点になり、口は半開きになった。いっしょに仕事をしていたエンジニアはその後半日ぐらいかけてテープを切ったり、貼ったりしていた。

ある日、リズムセクションを録り終えたテープを大先生の億ションに届けることになった。テープを持って行くことになったボーヤ(ローディー)のNに僕は言った。
「お前、ついでに表札ちゃんと見て来い」
戻ってきたボーヤにちゃんと見てきたか、と訊いた。
「見てきました」
そう言いながらボーヤは吹き出すのをこらえている。
「で、なんて書いてあった?」
「W辺栄吉です」
...。人間誰にでもコンプレックスはあるものだ。

back