リッスン                                      

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それがなんなのか、僕にはよく分からなかった。

 いつものように十時過ぎに帰ってきてアパートの鍵を開け、ドアに付いた郵便受けを確かめた。ダイレクトメールやちらしに混じって、それはそこにあった。少なくとも郵便屋や宅配便が届けたものではないことは、一目瞭然だ。僕はドアを開けたまま、黒くて見かけよりも重いそれを手に、しばし玄関先に立ち尽くした。

 よくよく見ると小型のラジオかなにかのようにも見える。ヘリウムアンテナが付いていて、正面にはスピーカーが付いていた。上部にはトグルスイッチと、電源を兼ねたボリューム調節と思われるダイヤル、それにヘッドフォン用と思われる端子が二つ付いている。いずれにしても安価なものでないことは確かだ。

 僕はひとしきり首を傾げながらも、ドアを閉めて靴を脱いだ。もしかしたらそれにまつわるメッセージかなにか入っていないものかと郵便受けの中を引っかきまわしてみたが、せいぜい底の方に出張風俗のチラシが数枚入っていただけで、それらしきものはなにも見当たらなかった。

 鞄を床に置いて上着を台所の椅子に掛けると、リビングのソファに座った。テーブルの上にそれを立てて置き、ネクタイを外しながらじっと観察した。しかし、観察して分かるようなら最初から苦労はしない。僕はうーん、とひとこと唸ってもう一度首を傾げると、一旦観察をあきらめて台所へと戻った。

 着ているものを脱ぎ捨てて、風呂場でシャワーを浴びた。シャワーを浴び終えると寝巻き代わりのTシャツと短パンに着替えた。冷蔵庫からオレンジジュースを取り出すと、コップに注いで喉を鳴らして飲んだ。ふうとひと息つくと、オレンジジュースを手にリビングに戻った。

 それはまるでキューブリックの「二〇〇一年宇宙の旅」に出てくるモノリスのようにテーブルの上にそびえ立っていた。それは高々十センチちょっとぐらいの、手のひらに乗るサイズでありながら、そびえ立っているという表現が正しいように思われた。それに、モノリスと同じように、まるでそこに忽然と現れたようにも思えた。ついさっき自分が郵便受けから持ってきたものと分かっているにも関わらず。

 僕はそれを見つめながら、生唾をひとつごくりと飲むと、手にしたオレンジジュースをまたひと口飲んで、煙草に火を点けた。

 これはなにか?

 これと似た状況がなにかこれまで見た映画か小説の中になかったかどうか、ひとしきり考えた。しかし、これといったものは思い浮かばなかった。やはり一番近いのは「二〇〇一年宇宙の旅」の冒頭のシーンのように思われた。とするとさしずめ僕はモノリスを取り囲んで恐れおののく原始人だ。さすがに骨を宙に放り投げることはしないが。

 馬鹿げている。とにかく一度そのイメージから抜け出そう。これは突然異次元から現れたものでも、太古の昔に遥か彼方の惑星からやってきたものでもなく、いつのまにか郵便受けに入っていたものなのだ。誰かが郵便受けに放り込んだものなのだ。

 誰か?

 いったい誰が、なんのために?

 僕はふうと煙をそれに向かって吐き出してみた。しかし、当然のことながらそれはなんの反応も示さなかった。少なくともそれは煙に反応するようなものではないことが分かった。当たり前だ。どうも異次元のものというイメージから抜け出せない。僕は自分に言い聞かせた。これは見たままのものなのだ。どこかその辺の、例えば秋葉原辺りに行けば売っているものなのだ。たぶん通信機器のコーナーかなんかに。通信機器。これはまさにそれに見える。

 僕は恐る恐るそれをもう一度手に取った。そもそも電源が入っていない。電源を兼ねたボリュームのダイヤルを回してみようとして、ふとある考えが浮かんだ。

 もしかしたらこれは爆弾ではないか?

 僕はぞっとしてそれをもう一度テーブルの上にしずしずと置いた。深々と煙草を吸って、煙を吐き出す。ふう、危なかった。危うく一命を取り止めたぞ。もう少しで部屋ごと吹っ飛ぶところだった。

 オレンジジュースをもうひと口飲んだ。自分が酷く馬鹿馬鹿しいことを考えているように思えた。だいたい、いったいどこの誰がこの僕を爆弾で吹き飛ばそうというのだ? 二流大学を卒業した、吹けば飛ぶようなソフトハウスのただの冴えない営業マンであるこの僕を。それはまるでうるさく吠える隣の犬を対戦車砲で撃つようなものだ。もしくはステルス戦闘機でうさぎ猟をするようなものだ。ま、どちらでもいいが。

 ふん、と僕は鼻を鳴らすと、それをもう一度手にとって耳を近づけてみた。なにも音はしない。時計がかちかちするような音はなにも。大丈夫だ。これはただのトランシーバーかなにかなのだ。僕はそれをまじまじと見つめながら、もう一度ボリュームのダイヤルに指をかけた。馬鹿馬鹿しいと思いながらも、電源を入れると爆発するという考えを完全には払拭できずに、ダイヤルを回す指に不必要に力が入った。電源が入った。

 それは当然のように爆発はしなかった。さーっという雑音がスピーカーから微かに聞こえた。僕は試しにボリュームのダイヤルを上げてみた。雑音が大きくなった。それはただのノイズであって、なんの意味も持たないものに思えた。

 僕が気になっているのは、周波数のダイヤルらしきものが見当たらないことだ。トグルスイッチが付いているのがその代わりなのだろうか? このスイッチは一応ABと切り替えられるようになっていて、今のところはAの方になっている。これをBにしたらどうなるのだろう? 僕の頭の中にはまたもや爆発という言葉が浮かんだが、いい加減そのイメージには僕自身がうんざりし始めていた。試しにトグルスイッチをBの方にしてみた。

 しかし、聞こえてくるのはやはりただの雑音だった。むしろこちらの方がより雑音らしい雑音だ。僕は失望してまたAの方に戻した。聞こえるのは相変わらず雑音ばかりだ。とすると、この機械はそもそもどこにも周波数が合っていないのか? それともこの雑音にこそ意味があるのか? 

 僕は以前ドキュメンタリー番組で見た、宇宙からのメッセージを受け取るために、巨大なパラボナアンテナで宇宙からの音を受信して解析し続けている海外の学者を思い出した。僕が見ていた限り、彼が聞いている音はただの雑音にしか聞こえず、受信したものをプリントアウトしたグラフも、生理不順の女性の基礎体温を折れ線グラフにしたものぐらいの意味しか持たないように思えた。

 僕は早々にこの連想を切り上げて、ひたすらなにかが起こるのを待った。しかし、煙草を二本灰にしても、なにも起こらなかった。聞こえてくるのは相変わらずさーっというノイズだけだった。突然自分が酷く間抜けに思えてきた。僕はただの雑音しか撒き散らさない機械の前で、なにを身構えているのだろう? きっとこれは誰かがからかっているのだ。ちょうど女子高生が待ち合わせ場所に現れた出会い系で知り合った間抜けな男を物陰から笑いものにするように。意味のない物音に耳をすませて緊張している僕を、どこかから笑っているのだ。

 そう考え始めると、どこかから誰かが僕を見張っているような気がしてならなかった。僕はヒッチコックの「裏窓」のように、どこかの部屋の一室で望遠鏡を覗いているジェイムズ・スチュアートを想像した。背筋に寒気を覚えて、ソファを立つとカーテンを開け放したままの窓際に近寄った。向かいのマンションは皆こちらにドアを向けており、窓はない。見渡す限り、通路にも屋上にも望遠鏡や双眼鏡を持ってこちらを見ている人影はない。やれやれ、なにやってるんだか。僕はカーテンを締め切った。

 そのとき、鍵を開ける音がして、ドアが開く音がした。僕はびっくりして振り返った。誰かが靴を脱ぐ音がする。急いで玄関を見に行くと、そこには誰もいなかった。そこでようやく、その音が例のものから聞こえきたことに気づいた。

 僕はリビングに戻ると、ソファに座ってそれに耳を傾けた。鞄かなにかを床に置く音。上着を脱いでいるらしい衣擦れの音、それから短い溜息。それは女性のもののように聞こえた。室内を歩く音。水が流れる音。手を洗っているのだろうか。冷蔵庫を開けるような音がして、今度は閉まる音。それからプシュッという炭酸飲料の缶のプルトップを引き上げる音がして、微かに喉を鳴らす音が雑音に混じって聞こえた。ふうという溜息がさっきより大きく聞こえた。やはり女性だ。何かを置く音。どこかのドアを開け閉めする音がして、しばらく物音が途絶えた。僕は知らぬ間に前屈みになっていた。身を潜めるように。次に聞こえてきたのは、くぐもった水を流す音。恐らくトイレに行っていたのだろう。

 僕は自分が他人の私生活を垣間見ていることに気づいた。見ている、という表現はこの場合適切ではないかもしれない。それはともかく、酷くやましい気持ちと、それ以上の好奇心が頭の中で渦巻いていた。喉がやたらと乾き、オレンジジュースの残りを飲み干した。

 着替えているらしい衣擦れの音。室内を歩く音が近付いてきて、ソファかなにかに腰を下ろしたような音。それからしばらくなにかを取り出して蓋を開けるような音と、なにかを擦っているような音。ティッシュを取り出しているような音。化粧を落としているのだろうか。

 聞こえてくる音は先程よりも明らかに大きくなっていた。音を拾っているのは今彼女(たぶん)がいる方の部屋なのだ。盗聴機。そうだ。僕は盗聴しているのだ。いや、させられているのだ。この目の前にあるのは、ラジオでもトランシーバーでも爆弾でもモノリスでもなくて、受信機だ。

 僕は誰かに操られているような嫌な感じを頭の隅っこに感じながら、それ以上に妙な興奮を自分が覚えていることに気づいた。アドレナリンが全身を駆け巡るのが分かる。僕はやけに落ち着かない椅子に座らされたように、せわしなく煙草を吸った。

 彼女はひとことも発しない。基本的に、なにがそこで起こっているのか正確には分からない。なんとなく分かるのは、特別なことはなにも起こっていない、ということだ。それがかえって日常性を際立たせるようで、僕を奇妙な緊張と興奮に導いた。やがてなにかの電源が入る音がして、音楽が聞こえ始めた。サティのピアノ曲だった。雑音が混じるやけにSNの悪いその響きを聞きながら、不思議な曲がさらに不思議な趣をもって聞こえた。それはこの状況の非日常性を象徴しているように思えた。あまりにも日常的な対象を観察することの非日常性。

 やっぱりこれはモノリスなのかもしれない、と思った。僕を非日常的な空間へと導くモノリス。僕はそれに魅入られたかのように、ソファを動けなかった。なにも起こらないものを聞き、なにかが起こるのを待った。僕をどこに連れ去ろうとしているのかを待った。それは釣りに似ているとも言えなくもない。釣りは子供のころ二三度釣堀でやったことがあるだけだ。だからその醍醐味は知らない。日がな一日釣り糸を垂れてじっと待つ人たちの気持ちはこういうものなのだろうか。もしくは獲物が現れるのをじっと待つハンターの心境。もっと近いものを思い浮かべれば、調査対象を追いかける興信所の探偵。いや、違う。彼らは趣味や仕事でやっているのであり、それが彼らにとっては日常なのだ。釣り人やハンターにしても、こんな風に罪悪感を感じながら待つことはあるまい。これはやはりどこか悪いことなのだ。一種異常な状況なのだ。だから僕は緊張し、興奮しているのだ。この突然降って湧いたような非日常性に。

 サティの曲もやがて終わり、テレビの音に切り替わった。どうやらニュースのようだ。時計を見ると、十一時を過ぎていた。もう三十分近く僕はソファにへばりついている。そして、僕はそこから立つことができないでいた。目の前に置いた受信機の電源を切ってしまえば、元の日常に戻れるというのに、それができない。

 立ち上がる音と、がさごそと衣擦れのような音がして、遠ざかる足音が聞こえた。それからなにかを開ける音がして、雑音が多くなった気がした。僕は耳を澄ませた。微かに水の音らしきものが聞こえる。少しボリュームを上げた。雑音の中から聞き取れたのは、どうやらシャワーを浴びている音らしかった。僕はその様子を想像しようとした。とりあえずぼんやりと頭に浮かぶのは自分の理想に近い肢体だ。しかし、考えてみれば彼女がどんな女性か、外見はもちろん、年齢すら分からないのだ。ふと、もしかしたら醜く太ったおばさんか、それとも死期の近い老婆かもしれない、という考えが頭をよぎった。それは束の間膨らみかけた僕の性的興奮を著しく萎えさせた。頭からその考えをなんとか振り払うと、もう一度若くて綺麗な子のほぼ理想的な肢体を思い浮かべた。それでいいのだ、と自分に言い聞かせた。なにを想像するかは僕の自由だ。それは僕の権利だ。唐突に見知らぬ女性のプライバシーを覗く義務を負わされた(それは酷く勝手な理屈だが、そんな気がした)のだから、それぐらいの権利はあっていい。僕は、彼女は自分とさして歳の変わらない、とても魅力的な女の子であると決めつけた。そしてそれはまんざら外れてはいないという妙な確信を持った。

 僕は想像のフォーカスをさまざまに微調節してみた。この場合、完璧な女性、例えばブラウン管の中やグラビアのページで見るような女性の肢体を思い浮かべることはかえって逆効果だということが分かった。それはかえって日常というものから遠ざかってしまう。もっと現実的な、その辺で擦れ違いそうな女の子、電車の中で見かけてちょっといいなと思うぐらいの女の子、会社にいてもおかしくないような女の子を思い浮かべる方がよい。それに自分が気後れしてしまうような美女よりも、そっちの方が自分の理想にも近いのだ。とにかく、自分の手が届きそうな、とても現実的でかつ魅力的な女の子。ところが、それを具体的に頭の中に映像化するとなるとかなり厄介な作業であることに気づいた。そもそも僕という人間は、女性に関してはこれといった特定のタイプといったものがない。僕は顔を作り上げるのをあきらめ、全体をぼんやりとしたイメージとして想像するに留めた。それよりもディテイルを想像することにした。例えば、細くてちょっと頼りなげな指先とか、自己主張し過ぎない唇とか、ミニスカートを穿くのにちょうどよいサイズの尻とか、うなじから鎖骨にかけての遠慮がちなスロープとか。作業としてはその方が容易だった。

 シャワーの音が止まり、浴室のドアが開く音が遠くに聞こえた。がさがさとなにかを擦るような音が雑音に混じって聞こえた。僕は全身が映る鏡の前で、バスタオルで髪を拭いている全裸の彼女の姿を想像した。彼女の陰毛から滴り落ちる水滴を想像した。それはとてもコケティッシュだ。僕はさっきから勃起している。それは途中の余計な想像によって硬度がしばしば変化はしたものの。

 それからしばらくドライヤーの音が聞こえた。そして足音が近付き、引き出しかなにかを開けるような音がした。また衣擦れの音。寝巻きに着替えているのだろう。僕は彼女が恐らくもう全裸ではないことに少々落胆を覚えた。それとともに、僕のペニスもその硬度を落とした。やがてテレビのスイッチが消され、静寂が聞こえた。それは実に妙なことだが、静寂というものが聞こえてくるような気がしたのだ。雑音の中に彼女の息遣いや心臓の鼓動が聞こえてくるような気がした。

 酷く近くになにかが擦れるような音がした。それはまるで目の前に彼女が横たわったような感覚だった。それから本のページをめくる音が聞こえた。やはりすごく近くに。彼女は近くにいる。音を拾っているものの目の前に。ほら、微かに息遣いが聞こえる。身体を動かすたびに擦れる音まで聞こえる。

 彼女は寝床で本を読んでいるようだ。たまにページをめくる音がする。それ以外はほとんど雑音が表す静寂が支配している。僕は気詰まりを覚えて煙草に火を点けた。ジッポの音が機械の向こうの彼女に聞こえてしまうような気がした。それぐらい近くに彼女を感じた。僕がひとことでもなにか発したら、彼女がこちらを振り向くような気がした。僕はまるで、ベトナムのジャングルで息を殺しながら身を潜めているにも関わらず、我慢できずに煙草を吸ってしまう兵士にでもなったような気がした。下手を打つと、どこかから銃弾が飛んでくるような緊張を覚えた。

 どれくらい時間が経ったのだろう。僕は何本か煙草を灰にしていた。時計を見ると、十二時をとうに回っていた。尿意を覚えた。しかし、僕はなかなかソファを立てなかった。僕がトイレに立っている間になにか起こったらどうしようと思うと。それから僕ははたと気づいた。この受信機を持ってトイレに行けばいいのだ。僕はその明快さに声を上げて笑い出しそうになった。しかし、相変わらず声を出すのはためらわれた。いまだにそれが彼女に伝わってしまうのではないかという気がしていた。大丈夫だ。こちらの音は彼女には聞こえはしないのだ。僕がなにを言おうと、叫ぼうと。僕はなにをしても構わないのだ。歌を唄おうと、放屁しようと、罵詈雑言を浴びせようと。分かってはいるのだが、その一方で、僕は彼女と静寂を共有しているのだ、という強い感覚があった。

 結局、僕は生理的欲求には勝てず、受信機を持ってトイレに行った。受信機は持ち歩いても感度が落ちることはなかった。右手にそれを持ちながら片手で用を足した。それは結果的に僕をソファに縛り付けていたひとつの呪縛から解き放った。僕はいつのまにか、恐らくそれはモノリスとだぶらせてしまったことから、最初に置いたテーブルの位置にあるからこそ聞こえてくるような錯覚に陥っていた。まるでその場所が唯一の聖地ででもあるかのように。だから僕はソファをなかなか立てず、身動きすることすらためらわれた。一度それを持って歩き始めると、今度はあたかも自分が彼女を掌握したかのような新たな錯覚が僕を捕らえた。彼女は僕のこの手の中にいるのだ、と。僕は思わず、ふふ、と声を洩らして笑った。当然の如く、それで彼女がこちらを振り向くことはなかった。

 僕はすっかり気が楽になり、リビングと台所の電気を消して、寝室のサイドワゴンに受信機を置くと、ベッドに仰向けに横たわった。天井の木目を見ながら受信機に耳を傾けた。受信機の向こうでは、相変わらず時折ページをめくる音が聞こえるだけだった。いつのまにか僕の勃起も収まって、自分がすっかりこの状況に慣れたことが分かった。緊張がほぐれてくると、退屈が顔をもたげてきた。立ち上がって電気の消えた台所まで行くと、冷蔵庫を開けてミネラルウォーターをグラスに注いだ。それを持ってベッドに戻ると、ひと口飲んだ。冷たい水が喉から食道を伝って行くのが分かる。かちり、という音が受信機から聞こえた。彼女は本を読むのを止め、寝るために枕元の電気を消したのだろう。もうしばらくすると寝息が聞こえてくるに違いない。僕はまた余計なことを考えた。彼女はいびきをかいたり、歯軋りをしたりするのだろうか。もしそうだったら興醒めだな。それともなにか悪夢にうなされて寝言を言ったりするのだろうか。それは聞いてみたい気もする。やれやれ。僕はすっかりこの突然現れたちっぽけな機械に振り回されている。そろそろスイッチを切って、僕も寝ることにしよう。

 僕はミネラルウォーターをもうひと口飲んで、受信機に手を伸ばした。そのとき、がさがさという衣擦れのような音が受信機から聞こえてきた。なんだろう? 寝返りでも打ったのだろうか? 僕は伸ばしていた手を引っ込め、また聞くことに集中し始めた。音は続いている。寝返りではなさそうだ。なにかを擦るような音だ。それは収まるどころか次第に擦るスピードが増しているように聞こえた。

 あ、という声が聞こえて僕は不意に心臓を掴まれでもしたように驚いた。その声を機会に、荒い息遣いが続いた。それは一定のリズムのようでいて、聞いていると微妙に速さを増していた。また、あ、という声が漏れ聞こえた。今度は先程よりも高い音程だった。彼女はマスターベーションをしているのだ。僕は受信機を食い入るように見つめ、激しく勃起した股間に手を伸ばした。彼女の荒い息遣いに合わせて、僕もマスターベーションをした。声が漏れる頻度は、リズムが速さを増すにつれて多くなった。それに合わせて僕の右手も動いた。いつのまにか彼女は間断なく声を洩らし続け、それは時折切なげに長くなったり、吐息のようなスタッカートになったりした。彼女の声のピッチが最高潮に達したとき、僕は慌てて広げたティッシュペーパーの上に射精した。それは勢い余ってシーツにも少しかかった。彼女もほぼ同時に達したようだ。僕は受信機から聞こえる彼女と同じように息を整えながら、ティッシュペーパーでペニスとシーツを拭いた。彼女と同時に達したという満足感を覚えたが、それと同時に、罪悪感もフェイドインしてきた。僕はその罪悪感をまるで味わうかのように、煙草をくわえて火を点けると、天井に向かってゆっくりと煙を吐き出した。僕は手に持った煙草の先からまるでのろしのように立ち昇っては消えて行く煙を見つめながら、充足感と罪悪感の入り混じった不思議な感覚に浸っていた。

 煙草を吸い終わって、サイドワゴンの灰皿に押し付けると、受信機から彼女の穏やかな寝息が聞こえてくることに気づいた。僕はなぜかしら安堵を覚えた。その寝息を聞きながら僕も眠りたいと思った。それはまるで同じベッドに一緒に寝ているような感覚だろう。しかし、と僕は気を取り直した。それではこの受信機も電池が切れてしまうかもしれない。それに、もしかしたら僕は自分の日常というものに戻れなくなってしまうかもしれない。僕は後ろ髪を引かれる思いで受信機のスイッチを切った。ぷつん、と雑音が途絶えた。そして、今度こそ本当の静寂が訪れた。僕は枕元の電気を消して、目を閉じた。いつか、それは明日か明後日かいつのことになるか分からないけれど、彼女の寝息を聞きながら寝よう。明日予備の電池を買ってこよう。そんなことを考えているうちにいつのまにか僕は深い眠りに落ちた。

 

 

 

 

 目覚ましの音で目を覚ますと、いつもの朝だった。いつもと変わらぬ朝。

 ベッドから身を乗り出してカーテンを開けると、朝の陽射しが部屋に差し込んでくる。僕はひとつ伸びをすると、傍らの受信機に目をやった。それはサイドワゴンの上にぽつんと佇んでいた。穏やかな朝の光の中で改めて見ると、昨夜あらゆる非日常性の象徴のように思えたものが、ただのちっぽけな機械に見えた。

 口の中がなにやら気持ち悪かった。考えてみれば、昨夜はそのちっぽけな機械に熱中するあまり、歯を磨くのを忘れて寝てしまったのだった。先に顔を洗ってから、歯ブラシに練り歯磨きをたっぷりつけて、ごしごしと歯を磨いた。それから薬缶を火にかけて、トースターに食パンを放り込んだ。

 濃いコーヒーをすすりながらトーストを齧った。まったく、どこをとってもいつもと変わらぬ朝だった。僕はちらりと受信機の方に目をやった。彼女はどんな朝食を摂るのだろう? もう起きて出かけてしまったのだろうか?

 唐突に受信機のスイッチを入れたい衝動に駆られた。僕はトーストを口にくわえたままベッドサイドまで行くと、受信機を見下ろした。その体勢のまま、もぐもぐとトーストを食べながら、好奇心と欲望と自制心と罪悪感とがしばらく僕の中でくんずほぐれつした。思わずスイッチに手を伸ばしたときに、傍らの時計が目に入った。八時四十五分。そこでようやく理性が打ち勝ち、僕はスイッチを入れるのを断念した。一旦入れたが最後、会社には行けなくなるような気がした。例え彼女が既に出かけた後で、雑音しか聞こえないとしても。

 僕は回れ右して台所に戻ると、コーヒーを飲みながら慌しく着替えを済ませた。

 

 僕はいつものように満員の電車に揺られ、いつものように始業ぎりぎりに会社に辿り着き、そしていつものように仕事をした。

 時折、例えばぎゅうぎゅう詰めの電車が駅で人が降りてひと息つけるようになったときとか、昼休みに食後の一服を吸っているときとか、外回りをしていてオフィス街の人込みの中を歩いているときとか、そんなたびに昨夜のことを思い出した。考えるのはいつも同じだ。

 あれはいったい誰が入れたものなのだろう? なんのために?

 しかし、結局は同じところを堂々巡りするばかりで見当もつかなかった。そのうち、例のさーっという雑音に混じって聞こえてくる、彼女の立てる音や気配といったものを思い出し、それとともにあの奇妙な緊張や興奮が脳裏によみがえってきて、いても立ってもいられない気持ちになるのだった。そんなときに限って都合よく罪悪感のことはどこかに行ってしまって、アドレナリンが駆け巡った記憶だけがよみがえり、今すぐにでも帰って受信機のスイッチを入れたくなる。僕はそのたびになんとかその欲望を抑え込んで、かろうじていつもの日常へと戻るのだった。

 退社のタイムカードを押すと、メシを食って帰ろうという同僚の誘いを断り、一刻を争うように帰り道についた。普段はほとんど外で食べる夕食も、コンビニから弁当を買って帰った。とにかく、一秒でも早く帰ってスイッチを入れたかった。

 コンビニの袋を手に、いつのまにか急ぎ足になっていた。空はどんよりと曇っていて星ひとつ見えず、下弦の月だけがおぼろげに周りの雲を照らし出していた。アパートに着くと、もどかしげにドアの鍵を開けた。慌しく靴を脱いで部屋に上がろうとして、ふと思い出して郵便受けを覗いた。電気の請求書とピザ屋のメニューが入っているだけだった。当たり前だ。毎日妙なものが郵便受けに届くようになったら大変だ。僕はドアを閉めながら苦笑を浮かべた。そこでようやく気づいた。昨夜彼女が帰ったのは十一時近かったではないか。僕は手首のGショックに目をやった。まだ九時前だ。やれやれ。いったいなにをやっているのだろう。僕は小さく溜息をついた。

 電子レンジで暖めた弁当を食べ、シャワーを浴びて着替えてから、つまり準備万端整ってから僕はベッドに腰を下ろして受信機と対峙した。今朝見たときはちっぽけな機械に思えたものが、またもや不可思議な世界へと誘うドアかなにかに見えた。煙草に火を点けてまじまじとそれを見つめながら、なにか荘厳な儀式でも行うように僕はボリュームのダイヤルを回した。それは当然のようにさーっという雑音を流すだけだった。まだ彼女は帰ってきていないのだ。あらかじめ分かっていたこととはいえ、僕は肩透かしを食らったような気分で煙を吐き出した。五分ばかりその雑音だけを聞いていたが、さすがに二日目ともなると慣れてきたのか、退屈を覚えた。僕は所在なげにベッドに転がると、天井を眺めた。いまや僕の興味の中心はこの行為そのものではなくて、彼女にある。登場人物のいない劇は退屈なだけだ。

 電池、という言葉が頭に浮かんだ。そうだ、電池を買うのを忘れた。僕はおもむろにベッドから身を起こすと、一旦スイッチを切って、受信機の裏側を確かめた。蓋を開けて見ると、単三の乾電池が四本入っていた。これでいったい何時間ぐらいもつのだろう。

 そこでふと閃いた。同じ寝室にある机に向かって、パソコンの電源を入れた。ブラウザを立ち上げてインターネットに繋ぐと、サーチエンジンの検索画面を出した。ちょっと考えて、「盗聴機」と打ち込んで検索ボタンを押した。それらしいページタイトルがずらっと画面に表示される。その中から、そういう類の専門店らしきページを見つけると、タイトルをクリックした。画面が変わり、トップページが現れると、どうやら防犯用品専門店のページらしかった。メニューの中から受信機を選んでクリックすると、写真付きでいくつかの受信機が細かいスペックとともに並んだ。目の前にあるものと完全に一致するものは見当たらなかったが、どうやらこれはUHF受信機という類のものらしかった。スペックを見るとどれも似たようなものである。一番近そうな機種を見ると、やはり単三の乾電池四本で約四十時間使用、と書いてあった。これはマンガン電池の場合だから、アルカリ電池にすればもっと長く使えるだろう。案外長く使えるもんだな、と僕は感心した。受信可能距離はどの機種もほとんど同じで、五十メートルから三百メートルとなっていた。随分と幅があるな、と思った。半径五十メートルというとかなり近所という感じがするが、半径三百メートルとなると、えーと、時速四キロで歩くとして…… 僕は机の上にあった電卓を叩いた。約徒歩五分圏内ということになる。意外と近いな、と思った。いずれにしろ、彼女はここからそう遠くはないところに住んでいるのだ。

 時計を見ると、十時をまわったばかりだった。パソコンの電源を落とすと、受信機をつけっぱなしにしたまま、近所のコンビニまで出かけた。単三のアルカリ乾電池を四本と、煙草をひと箱、それとミネラルウォーターのボトルを買った。コンビニの袋をぶら下げて夜道を戻りながら、道沿いにあるマンションやアパートを見上げた。この中のどれかに住んでいるのかもしれないな。だとしたらどれだろう。あのタイル貼りのマンションか、いや、どうやら彼女はひとり暮らしらしいから、あんな贅沢なところにはたぶん住んでいないだろう。とすると、あそこのアパートかな。それとも向こうのこぢんまりとしたコーポだろうか。

 僕は歩きながらそんな風に想像を巡らして、なんとか彼女の居場所を突き止める方法はないだろうか、と考えた。逆探知みたいなことはできないだろうか。例えば、あの受信機を持って歩いて、受信状態で分からないだろうか。しかし、そうそう都合よく金属探知機みたいに場所を示してくれるとは思えなかった。分かるとすればせいぜい、これ以上離れたら聞こえなくなるという範囲ぐらいだろう。そんなことを考えているうちにアパートに辿り着いた。

 僕は受信機をリビングのテーブルに置いて、音を消したテレビを見ながら待った。音を消したテレビを見るというのも不思議なものだ。ドラマの演技が真に迫っていればいるほど、どこか遠い世界の出来事のように見える。役者がいくら顔を真っ赤にして叫ぼうと、僕の耳にはなにも届かない。耳の不自由な人にとって、テレビというものはこういうものなんだろうな、と思った。僕はコーヒーを飲み、煙草を何本か灰にして、その物言わぬ世界を見つめていた。聞こえてくるのは、受信機から漏れるさーっという微かな雑音だけだった。

 十一時きっかりに彼女は帰ってきた。がちゃりというドアが開く音が聞こえてきても、もう僕はそれほど驚きはしなかった。玄関先で彼女はふうと小さく溜息をついた。それから彼女は水道の水をコップに一杯注いで飲み干し、ジャズのCDをかけながら化粧を落として、服を脱ぐとシャワーを浴びた。

 僕にはそれらのことが手に取るように分かった。これは慣れてきたということなのだろう。音を聞き取るコツ、聞き分けるコツのようなものが身に付き始めていた。彼女が昨夜のように風呂上りに身体をバスタオルで拭いている様子が伝わってくる。今日は体重計に乗ったガタンという小さな音まで聞き分けられた。いいぞ、と僕は思った。少なくとも彼女は体重計に乗ることすらあきらめているわけではないし、もしくは体重計というものを毛嫌いしなければならないような体型ではない、ということだ。彼女は自分のスタイルに関して気を使う人間だ。理想を保っているかどうかはともかく、それに近付こうとする人間だ。

 例によって冷蔵庫から取り出した炭酸飲料の缶を開ける音が聞こえた。喉を鳴らす音。ビールだろうか? それともコーラ? 彼女はそのどちらかを手に、こちらに近付いてくる。そう、まさにこの部屋に入ってくるように感じる。ソファに腰を下ろす音。それともベッドか? たぶん彼女の部屋は1DKのつくりなのだろう。ぶーんという音がしてテレビのスイッチが入る。ニュースを読むアナウンサーの声が聞こえてくる。僕はリモコンを手にして、その音と一致するチャンネルを探した。探し当てたときは奇妙な感動を覚えた。受信機から聞こえてくるテレビの音と、目の前の画面が一致した瞬間。その瞬間に僕のリビングのテレビは息を吹き返した。それはもはや遠い世界の出来事ではない。それと同時に、僕と彼女の時間は一致したのだ、と思った。僕と彼女は同じ時間を生きている。僕と彼女の空間は繋がっている。僕は彼女の部屋にいる。もはや罪悪感は覚えなかった。

 

 

 

 

 目覚ましの電子音で目が覚めた。だが、それは僕の目覚ましではなかった。

 昨夜、彼女はマスターベーションをしなかった。一時近くまで本を読むと、そのまますやすやと眠りについた。僕はベッドでその寝息を聞きながらいつのまにか寝てしまった。それはとても幸せな気分だった。僕は独りではないのだ、という感じがした。

 時計を見ると、七時だった。僕の目覚ましが鳴るまではまだ一時間ちょっとある。電子音が止まり、彼女が起きる音がした。カーテンを開ける音がして、それから足音が遠ざかっていった。水の音。顔を洗っているのだろうか。それからシャワーを浴びている音が遠くに聞こえ、それを聞いているうちに僕はまた寝入ってしまった。

 今度こそ自分の目覚ましの音で起きた。受信機からはさーっという雑音以外なにも聞こえなかった。彼女がいる気配はなかった。もう彼女は出かけてしまったのだろう。僕はベッドから身を起こすと、顔を洗うために洗面所に立った。

 

 僕は慌てて帰ることもなくなり、いつも通り外で夕食を済ませ、たまには同僚と一緒に食事をして、十時近くに帰った。そしてシャワーを浴びて着替えると、彼女が帰ってくるのを待った。

 彼女はだいたい十時半から十一時のあいだに帰宅して、音楽を聴きながら化粧を落とし、シャワーを浴びて、ビールかコーラを飲んで、テレビのニュースを見て、それから本を読んで寝た。そして二日に一度はマスターベーションをした。それはとても規則正しい生活で、それとともに僕の夜の生活も規則正しいものになった。朝の目覚ましの設定時刻が違うので、寝るときには受信機のスイッチを切るようにした。そうでもしないと、本当に彼女の生活と自分の生活を混同してしまいそうで、少々怖くもあったのだ。それぐらいの分別はまだあった。

 そんな風にして四日間が過ぎ、金曜の晩がきた。僕はいつものようにソファで濃いコーヒーを飲みながら彼女の帰りを待っていた。相変わらず音を消したテレビをつけて、ぼんやりとその画面を見ながら煙草をふかしていた。そこではたと気づいた。彼女はこの四日あまり、ひとことも喋っていないということに。僕の知っている彼女の声は、溜息か、もしくはマスターベーションのときに洩らす喘ぎ声でしかなかった。僕はいまだに彼女の名前すら知らないのだった。

 そのころには、誰がこの受信機を郵便受けに放り込んだのか、なんのために入れたのか、僕にはどうでもよくなっていた。ただもっと彼女を知りたいと思った。できることなら彼女の姿を見たいと思った。相変わらず僕の頭の中に浮かぶ彼女は杳として顔がなかった。せめて僕が漠然と思い浮かべる彼女とかけ離れていないことだけでも確かめたかった。一方では、現実を見て失望するのを恐れる気持ちもあった。それよりはこのまま想像の中でディテイルを作り上げて、彼女の姿を自分の中で固定してしまいたい、とも思った。

 そんな風に僕の気持ちが振り子のように揺れている間に、ドアが開く音がして彼女が帰ってきた。

 僕はふと違和感を覚えた。それはなんだろう、と考えた。時計を見た。十時である。いつもよりも早いのだ。週末の夜であるというのに。それは彼女の孤独を表しているのだろうか? そういえば僕が聞くようになってから、彼女のところに一度も電話がかかって来ない。彼女には友達や恋人と呼べる人間がいないのだろうか? 考えてみれば僕も同様だった。この四日間というもの、電話は一度も鳴らなかった。友達がいないというわけではない。しかし、学生時代と違って社会人になると、プライベートでかかってくる友達からの電話というものはめっきりと減っていた。普段は意識したことがなかったが、改めて思い返してみると、例えば今年かかってきた友人からの電話というのは数えるほどしかなかった。僕にいま付き合っている彼女がいない、ということも大きいのだろう。もしそういう子がいたら、僕の電話はもっと頻繁に鳴るはずだ。僕はいつのまにか彼女を自分とだぶらせていた。当然、彼女も僕同様付き合っている人間がいなくて、その分孤独な人間なのだ、と勝手に思い込んでいた。しかし、それはともかく、女の子というのは男よりも電話好きで、しょっちゅう友達と電話で話したりするものではなかったか? それともそれは僕の勝手な思い過ごしで、もしかしたらテレビドラマの見過ぎなのだろうか? だいたい、高校生じゃあるまいし、そう年がら年中ぺちゃくちゃとお喋りしているとは限らない。いずれにしても、この四日間で感じ取れた彼女というのは、とても孤独な女性だった。

 そんなことを考えながら、受信機に聞き耳を立てている僕の違和感は次第に増していった。どうもなにかがいつもと違う。彼女は化粧を落としている気配がない。いつもと違う妙な緊張感が伝わってくる。それは微妙に聞こえてくる音の違いであったり、鳴るはずの音が鳴らなかったりという曖昧で不確かなものではあったが、言葉では説明のつかない張り詰めたものが伝わってくる。別になにか起こっているわけではない。なにも起こってはいない。まだ。

 テレビの音が聞こえてこないのも僕を不安にさせる。僕のテレビは虚しく口をぱくぱくとさせるだけだ。これでは彼女の時間とリンクさせることができない。テレビの代わりに聞こえてくる、いつかと同じサティの曲が、今日はより不安定さを募らせる。その穏やかな響きが僕の神経を逆撫でする。僕は息苦しさを覚えて煙草を消した。

 次の瞬間に僕の不安は的中した。それはドアチャイムの音となって現れた。ピンポーンという音に僕は恐怖した。それはまるで自分のところに死神が迎えにでも来たような気がした。

「はい」

 それが僕が初めて聞いた彼女の話す声だった。それはちょっとハスキーなアルトで、想像していたよりも低い声だった。どこかで聞いたことがあるような気がした。立ち上がる気配がして足音が遠ざかっていった。ドアの鍵を開けるがちゃりという音が小さく聞こえた。ドアが開く音が聞こえて、彼女の「どうぞ」という声が聞こえた。誰かが靴を脱いでいる音が聞こえる。そして玄関先に上がる足音。訪問者はまだひとことも発しない。僕は息を呑む。みしっという床を踏む音が、彼女よりも体重があることを教えていた。男だ、と僕は思った。その瞬間に絶望感が雪崩のように僕の背中の辺りを切り崩しながら押し寄せてくるのを感じた。

「ビールにしますか?」彼女は言った。

「いや後でいい」

 男の声は妙に甲高くてしゃがれていた。それは男がある程度の年齢を経ていることを伝えている。一瞬、僕は彼女の父親でも訪ねてきたのだろうか、と思った。しかし、相変わらず僕の背中の方では雪崩が音もなく崩れ落ち、それが気休めであることを伝えていた。

 バスルームのドアが開き、シャワーの音が遠くで聞こえた。シャワーを浴びているのが男の方であることは、目の前に彼女がいる気配で分かった。これからなにが起こるかは火を見るよりも明らかだった。僕は受信機のスイッチを切るべきだ、と思った。しかし、身体はぴくりとも動かなかった。知らぬ間にうっすらと額に汗を浮かべていた。サティはまだゆらゆらと不安定に鳴り響き、僕はそれが終わらないことに苛々した。

 彼女はひとことも発せず、男がシャワーを浴び終わるのをベッドでじっと待っているようだった。遠くのシャワーと、サティのほかには余計な物音はいっさい聞こえず、僕は彼女が緊張しているのだ、と思った。妙だ、と思った。先程から伝わってくるのは、なにか主従関係のような張り詰めたもので、恋人たちの間にあるリラックスした雰囲気は感じられなかった。愛人、という言葉が頭の中に浮かんだ。

 やがてシャワーの音が止み、それは始まった。彼女の洩らす吐息、シーツの擦れ合う音、男の荒い息遣い、ベッドのきしむ音。それらがすべて僕の肩の上にのしかかり、その重さで僕を否応もなくソファに縛りつけた。途方もない敗北感と絶望感を覚えながらも、僕は勃起してしまっていた。彼女が声を上げるたび、それはよく砥がれたナイフのように僕を傷つけていった。僕は膝の上で両手の指を絡めて、それに耐えた。まるで祈るかのように。

 彼女の甲高い声でようやくそれが終わった。受信機から聞こえてくる彼らの息遣い同様、僕も荒い息をついていた。おまけにまだ惨めに勃起していた。まるで砂漠を二日間歩いたみたいに喉がからからに乾いていた。受信機の中で、恐らく彼女がベッドから起き上がり、立ち上がっていく足音が聞こえた。それから冷蔵庫を開ける音がして、足音がまた近づき、はい、という彼女の声が聞こえた。ありがとう、という例のしゃがれた男の声が聞こえ、プシュッというプルトップを開ける音がした。

 僕はその音で呪縛が解けでもしたかのように、ふらふらとソファを立ち上がった。台所に行って冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、蓋を開けて口の周りにこぼれるのも構わずごくごくと喉を鳴らして飲んだ。ようやく砂漠でオアシスに辿り着いたらくだみたいに。さしずめ先程の出来事が、蜃気楼がもたらす幻覚ででもあったかのように。どれぐらい飲んだだろうか。ようやく息をつくと、長い吐息が僕の口から漏れた。

 それからまたふらふらとソファに戻ると、煙草に火を点けて煙を肺の奥深くまで吸い込み、そしてゆっくりと吐き出した。気がつくと受信機の中では衣擦れの音がして、男が着替えているようだった。二人とも世間話を交わすこともなく、無言だった。それが二人の信頼関係を表すものなのか、それともビジネスライクな関係を表すものなのかは分からなかった。ただ、二人ともやけに大人に見えた。いや、見えたという表現はこの場合正しくない。それは単に僕の頭の中に浮かんだ映像だ。単なる想像でしかない。所詮、僕は想像するだけの男に過ぎないのだ。

 二つの足音が遠ざかる音がして、玄関の鍵を開ける音がした。じゃ、とひとことだけ男が言った。そしてドアの閉まる音がした。彼女は黙っていた。ひとつだけになった足音が近付いてきて、どさっと横になる音がした。それからふうという深い溜息を彼女は漏らした。そしてまた静寂が戻った。

 なぜだか分からないが、彼女が泣いているような気がした。彼女の頬を伝う涙が見えるような気がした。なんだか僕も悲しくなってきて、気がつくと頬を涙が伝っていた。それは酷く滑稽なことのようにも思えた。僕は煙草を持っている方の手でその涙を拭うと、もう一度深く煙を吸い込んで吐き出しながら苦笑した。それから僕は本当に寂しくて、悲しくなった。相変わらずテレビは音もなく軽薄なコマーシャルを映し出していた。

 

「ねえ、まだ聞いてる?」

 突然、受信機から声が聞こえた。それはまるで耳元で話しかけられているように近かった。えっ、と僕は思わず顔を上げて声に出していた。それから自分が愚かな勘違いをしていることに気がついた。彼女が自分に向かって話しかけてきたような気がしたのだ。そんな馬鹿な。僕はきっとあの男が帰ってしまったと勘違いしてしまったのだ。僕は彼女のセックスに酷く動揺して、幻聴でも聞こえてしまったのかもしれない。考えてみればそれも愚かなことだ。僕はただの傍観者に過ぎないのだ。このところの僕は、このちっぽけな機械が飛び込んできてから、確かにどうかしてた。いつのまにか彼女が自分のものであるかのような気がしていた。自分と彼女は同じ時間と空間を共有しているような気がしていた。僕は彼女のことを、名前も顔も歳も、なにも知らないのにすべて知っているような気すらしていた。僕のやっていることは、それは誰かにやらされていることかもしれないが、ストーカーと同じだ。僕は嫉妬すら覚えた。彼女が他の男に抱かれたことに。果てしない絶望すら覚えた。愚かなことに涙さえ流した。これではまるで変態だ。変質者だ。挙句の果てに幻聴すら聞こえてくるほどのめり込んでしまった。僕は救いようがないほど愚かだ。

「もう聞いてないか……」

 それはまた聞こえてきた。これは幻聴なのだろうか? 僕は気が狂いかけているのだろうか?

「そうだよね、もう聞いてないよね」

 彼女の声は半分涙声のように聞こえた。彼女の話し方はゆっくりとしていて、まるで小さい子に語りかけているようだった。

「わたしのこと嫌いになっちゃったよね。そうか、わたしなに言ってんだろう? あなたわたしのこと知らないんだもんね。でもね、あなたは誰よりもわたしのことを知ってるの。誰よりも」

 そこで彼女は少ししゃくりあげた。

「ねえ、まだ聞いてる? 聞いてたら電話して。あなたの声が聞きたい。あなたはどんな声をしてるのかしら? お願い、電話して。助けて」

 これはなんだ? 幻聴ではないのか?

「電話番号言うから。書くものある?」

 そして彼女は番号を口にした。僕はテーブルの上にあった文庫本のカバーの上に、ボールペンでその番号を書いた。

「お願い。助けて」

 それっきり彼女は黙った。

 僕はボールペンをテーブルに置くと、文庫本に書かれた電話番号を見つめた。番号の上四桁は僕の番号と一緒だった。これはいったいなんだろう? 電話番号であることは確かだ。幻聴でないとしたら、これは彼女に繋がる電話番号だ。しかし、果たして彼女は本当に僕に話しかけていたのだろうか? 僕に助けを求めているのだろうか?

 僕は煙草一本分待つことにした。彼女が話しかけた相手が僕ではないとしたら、受信機の向こうで電話が鳴るはずだ。僕は煙草を吸いながら、ブラウン管の中で気難しい顔をしてなにごとか話しているニュースキャスターの顔をぼんやりと眺めた。頭の中では先程の彼女の言葉がぐるぐると回っていた。お願い。助けて。ねえ、まだ聞いてる?

 電話は鳴らなかった。僕は煙草を灰皿に押し付けて消すと、テーブルの上の受話器に手を伸ばした。僕は手にしたコードレスの電話機の内側に並ぶダイヤルボタンを見つめた。それからもう一度文庫本に書かれた番号を見た。僕はいったいなにをしようとしているのだ? これがとんでもない勘違いだったらどうするのだ? 僕はダイヤルボタンを押しながら、受話器から「現在使われておりません」というメッセージが流れることを頭の半分で祈った。残りの半分は彼女が話したい相手が僕であって欲しいと祈っていた。ダイヤルボタンを押す自分の指先が、途轍もないスローモーションに見えた。

 番号をすべて押すと、受話器を耳につけた。呼び出し音が聞こえた。耳元の受話器と、そして受信機の向こうで。繋がっちまった。そう思った瞬間、恐怖と後悔が入り混じった感覚に襲われた。心臓の鼓動が受話器を伝わり、自分の耳へと戻ってくるような錯覚を覚えた。二度目の呼び出し音で向こうの受話器が上がった。そして声が聞こえた。

「もしもし」

 確かに彼女の声だった。やけに雑音が多かった。目の前の受信機と発振しているのだ。僕は受信機のダイヤルを回してスイッチを切った。

「もしもし、あなたね?」

 僕はなんと答えていいものか分からなかった。

「あなたなんでしょう?」

 彼女は小さい子供に言い聞かせるようなゆっくりとしたリズムで、さらに問いかけてくる。僕です、と言えばいいのだろうか? しかし、本当に僕なのだろうか? 彼女が話したい相手は。

「あの……」

 それだけ言うのが精一杯だった。

「あなたなんでしょう?」

 彼女はもう一度言った。僕はひとつ深呼吸すると言った。

「僕でいいのかな?」

「え?」

「だから、きみが話したいのは僕でいいのかな」

「ええ、わたしが話したいのはあなたよ」

 彼女の声は先程の涙声とは違って、やけに落ち着いて聞こえた。それはとても優しい口調だった。

「その、僕が誰だか知ってるの?」

「もちろん」いまや彼女の声は確信に満ちた母親のようだった。

「どうして?」

「だって、あなたはわたしを聞いてたでしょう?」

 僕は悪戯を見つかった子供のように、羞恥心と罪悪感で顔を赤らめた。僕らのあいだに少しの沈黙の間ができた。それは数秒間のようでもあり、数十秒か、それ以上のようでもあった。たぶんそれはほんの数秒で、そのあいだに僕の頭の中で、スカッシュのボールのように思考が跳ね回った。それから僕はようやく気づいた。

「きみなんだね? これを入れたのは」僕は受信機に目をやった。

「そう。迷惑だった?」

「いや、そんなことはないと思うけど。どうかな。よく分からない」

「ごめんなさい。でも、そうするしかなかったのよ」

 彼女の言っていることは不思議なようでもあり、一方では妙に納得させられるものがあった。恐らくそれは彼女の声のピッチと、テンポと、それらが紡ぎ出すリズムのせいだ。僕の中に何人かの僕がいて、その中のひとりは彼女の言うことをまったくの不条理だと思い、また別のひとりは完全に納得していた。いまや僕の頭の中は、そんな連中がひっきりなしにうろうろする待合室みたいになっていて、その真ん中に途方に暮れる僕がいた。いま喋っているのがその中のどの僕なのか、自分でも分からなかった。それでも僕は訊いてみた。

「どうして?」

「わたしはあなたを知っているけど、あなたはわたしを知らなかったから。ねえ」

「なに?」

「あなたの声って思ってたより低いのね」

「そう?」

「うん、でも素敵よ」

「ありがとう」

 僕はなにを言っているのだろう? これは彼女のリズムであって、僕のリズムではない。そしてそれは僕になにかを見過ごさせる。しかし、僕はそこから抜け出ることはできない。彼女のリズムは確信に満ちて、甘美で、心地よかった。

「あなたにわたしを知ってもらいたかったの」

「僕はきみのことを知っているのかな?」

「知っているわよ。誰よりも。だって誰も知らないわたしを知ってるもの」

 僕はマスターベーションをしている彼女の、達するときの声を思い浮かべた。それから不意に切なさと心細さが僕を襲った。

「でも僕はきみの名前も、顔も知らない」

「ねえ、わたしのことを知りたいと思った?」

 僕は少し間を置いてから、正直に答えた。

「うん」

「嬉しい」

「ねえ」

「なに?」

「正直に言っていいかな?」

「いいわよ」

「きみの容姿が気になって仕方がないんだ」

「そうよね。わたしは特別に美人なわけでも、ブスでもないわ。あなたはわたしを気に入るかしら?」

 僕はなんと答えていいものか分からなかった。僕はもう既にきみのことを気に入っているのかもしれない。少なくともこの四日間、夢中になったことは確かだ。

「知りたいことが山のようにあるんだ」

「例えば?」

「きみはいくつなのかな?」

「二十四」

「僕より六つ下だ。もう少し大人かと思った。身長は?」

「百五十八センチ」

「もっと大きいかと思った」

「四十六キロ」

「それってどうなのかな?」

「普通だと思うけど。他には?」

「名前は?」

「ユミ」

「ねえユミ、こんなこと訊いていいのか分からないけど、さっきの人は?」

 少し間があってからユミは答えた。

「会社の社長。月に十万もらってる」

「それって愛人ってことかな」

「ごめんね。わたし、誰かと寝てないと寂しくて死にたくなっちゃうのよ。でももうやめる。あなたがわたしを助けてくれたら」

「どうやって?」

「わたしを好きになってくれたら。少なくともわたしを嫌いじゃなかったら」

 僕はもしかしたらもうきみのことを好きなのかもしれないし、少なくとも嫌いではない。ところで、さっきから喋っている僕は、どの僕なんだろう? ユミは先を続けた。

「友達でも構わないのよ。ねえ」

「なに?」

「あなたはわたしを抱いてくれるかしら?」

「正直言うと、僕はきみがマスターベーションしているときに一緒にしてた」

「嬉しい」

 僕はなにか肝心なことを訊き忘れているような気がした。しかし、それを思い出す前に彼女は言った。

「ねえ、これからあなたのところに行ってもいいかしら?」

「いいよ」

 僕は深く考えずに答えてしまったが、なにかが引っ掛かっていた。それはたぶん話している僕とは別の僕のどれかだ。その僕が僕を引っ張っている。警告を発している。だが、僕にはそう答えざるを得なかった。そう答えるしかないように思われた。途方もなく巧みな誘導尋問。あるいはいびつな予定調和。まるで彼女が僕の代わりに答えているか、それとも僕がひとりで自問自答しているかのようだった。僕はもしかしたらさっきから彼女のひとりごとを聞いているか、それともただの発信音に向かってぶつぶつとひとりごとを言っているのかもしれないと思った。しかし、それとはお構いなしに彼女は言った。

「ありがとう。じゃ、すぐ行くから」

 そう言って電話は切れた。僕はコードレスの電話機を充電器に戻すと、煙草に火を点けた。煙を深く吸い込むと少し眩暈がした。それからテーブルの上にポツンと立っている受信機を見つめた。静かだった。まったくなにごともなかったように静かだった。電話をかけたときの動悸は、話している間にすっかり収まっていた。いまや僕はすっかり落ち着き払っているように見える。ゆっくりと煙草を吸った。先程話しながら覚えた違和感がなんなのか考えた。僕が陥った混乱がなんなのか考えた。僕はなぜ彼女の声に聞き覚えがあるなどと思ったのだろう? しかし、考えてみればすべての、あらゆる声はどこか聞き覚えがあるのだ。それはなにも不思議なことではない。DNAを侮ってはいけない。彼女は僕を知っていると言った。彼女は僕のなにを「知って」いるのだろう? 僕はいったい彼女のなにを「知って」いるのだろう? 僕は呆けたように一点を見つめて煙を吐き出した。あっけなく消えて行く煙とは裏腹に、受信機は厳然とそこにあった。どうしてこうなったのだろう? これからなにが起こるというのだろう? さっきまでの会話は果たして現実だったのだろうか? それともただ僕の頭が混乱をきたしただけだったのだろうか? 僕のどこかに先週までの僕がいた。まだなにも起こらなかったときの僕が。ただその僕はいつのまにかどこか隅っこの方に置き去りにされている。日常とは、現実とは、「知る」とはなにか? あのリズム。落ち着き払ったリズム。いまになって、それは涙声で聞こえてきた受信機からの声とかけ離れているように思えた。なにかが少しずつ、地中から虫が這い出るようにせり上がってくる。それがなんなのかいまの僕にはまだ理解できない。いや、理解している僕がここにいないだけだ。いや、それも違う。確かにいるのだ。ユミ? ユミとはいったい誰だ? 僕は誰を待っているのだ? なにかヘンだった。しかし、考えてみればすべてがヘンな気がした。僕の現実は地軸がずれた惑星のようにゆっくりと軌道をはずれていくような気がした。しかし、もう遅いのだ。もうすぐ彼女はやってくる。

 僕が煙草を灰皿に押し付けたとき、ドアチャイムが鳴った。

 

(了)

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