homage

「マツダヨシヒロ君に捧ぐ」

...

実を言うと僕は小学生時代はいじめっ子だった。今考えると結構酷いことをやった。まあ現在横行しているような陰湿ないじめではないが。例えば、授業が始まるタイミングで一人を押さえつけてパンツを脱がせたり、とかそんなものだ。それで、その対象になっていたのがマツダヨシヒロ君だった。彼はどことなくぼんやりしたところがあって、つまりいわゆる隙があって、それでなんとなくいじめてみたくなったのだと今となっては思う。前述のような結構酷いことをやったわりには、どこか友だちという感覚もあり、マツダヨシヒロ君の方もさんざん酷い目に遭っていながら僕のことを毛嫌いするわけでもなく、なんとなく近づいてくるところもあった。今考えてみると不思議な関係である。

ある日、そのマツダヨシヒロ君が、ひよこを飼っているので見に来て欲しいと言うので、僕らは数人で彼の家を訪れた。玄関先で彼が名前を呼ぶと、廊下の向こうからまごうことなき一羽の鶏が走ってきた。僕らは唖然とし、これのどこがひよこなんだ、と僕らはまたマツダ君をボコボコにした。彼には生来そういうところがあって、ある意味純真なのだろうけどどこか普通の人よりも微妙にずれているのだった。

あるとき、マツダ君は歌を作ったので聞いて欲しいと言って、歌い始めた。いまでも寸分違わず覚えているが、こんな歌詞だった。

僕は一人で歩けるんだ
だけど一日中歩いたので
もう歩けない
倒れる
倒れる
倒れた、バタリ

メロディーは非常に単調で起伏のない歌だったが、実は僕はこの歌を聞いてちょっとショックを受けた。つまり、僕は人が創作をして自作自演をするのを生まれて初めて目の当たりにしたのだった。しかもそれがいつもぼんやりとしてどこかずれていて、僕にいじめらてばかりのマツダヨシヒロ君の創作であるということもある意味ショックだった。カルチャー・ショックと言ってもいい。

あれからもう40年も経ったけれど、今でもときおり不意に僕はこの歌を思い出す。そして、今考えるとなかなかにいい歌詞に思われるのだ。何かの本質とか核心というものを衝いているような気がする。それに、あまりにも簡潔で無駄がない。それは考えようによってはあらゆる余分なものを削ぎ落としたものと言ってもいい。もちろんそれが小学校の低学年の、稚拙な作品であるが故ということも分かっている。だけどね、初めてこの歌を聞いたときは、何かを創作するってこういうことなんだと僕は思った。それは何か皮膚感覚のようなもので、何かを作るってことは考えて考えて頭を抱えてやるものではないってことだ。例えばセンチメンタリズムを表現するのに、センチメンタルになる必要はない、というような。僕は毎日のようにマツダ君をいじめていたけれど、実は彼を尊敬していたのだった。彼は特に何かに秀でていたわけでも才能があるわけでも天才でもなく、今となっては凡庸を絵に描いたような人間になっているだろうが、僕は上手く言えないけれどちょっとした真実を彼に教えてもらったような気がする。

こんな風に、物事の本質といったものは、意外なところに不意に現れたりするのだった。

written on 8th, may, 2009

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