帰郷                   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 万梨子は新幹線からホームに降り立つと、眩しさに目を細めた。降りる客はまばらだ。彼らの後についてホームの中程にある連絡橋の階段を上がると、連絡通路を抜けたところに改札の出口はあった。駅はすっかり様変わりしていた。新幹線が止まるようになり、小さいながらもモダンな造りの駅ビルまでできて、おまけに駅名まで変わっていた。しかし、かといって乗降客まで増えたわけではないらしく、改札には日焼けした駅員がひとりいるだけで、小奇麗な駅の構内にも人影は少なかった。改札は三階にあたるらしく、階段を二つ降りたところで一階に辿り着いた。駅ビルを出ると、ロータリーの周りは酷く殺風景だ。駅前といっても、ロータリーを抜けた通りとの角にコンビニがひとつあるだけで、何もないと言ってもよかった。いくら駅名が変わっても、やっぱり田舎は田舎だ、と万梨子は思った。しかし、万梨子の目指す街はここよりもさらに田舎だ。遠い昔に鉄道の敷設を地元住民が反対したとやらで、なにしろ未だに駅すらない。ロータリーは夏の終わりの太陽に炙られて湯気を上げているかのように思われた。実際、向こうに見える通りは、陽炎で揺らいで見えた。万梨子はシャネルのバッグからサングラスを取り出すと、それをかけた。風景の大半を占めていた空の色にフィルターがかかる。ロータリーに隣接する民家の軒先では、ミンミンゼミが一匹鳴いていた。

 万梨子は一台だけ客待ちをしていたタクシーに乗り込むと、隣街の名を告げた。運転手は万梨子のサングラスに臆したのか、東京からですか、と一度訊いたきり口を噤んだ。

 バイパスを渡ると、道の両側には延々と果樹園が続いた。道は広くなってもこの風景は相変わらずだ。万梨子はウィンドウを半分開けると、煙草を咥えて火を点けた。煙を窓越しに吐き出す。延々と続く果樹園。一瞬、もしかしたら何も変わっていないのではないか、という思いが万梨子の脳裏に浮かび、それはちょっとした戦慄をもたらした。しかし、その思いも道の交差する角にセブンイレブンがあるのを見て、すぐに薄らいだ。昔はコンビニなど一軒もなかった。もうあれから二十年も経っているのだ。世界は変わっている。このわたしが変わったように。万梨子はもうひとつ深く煙草を吸い込んだ。

 空港を過ぎ、市街地のはずれを抜けると、車は再び果樹園の中の一本道に入っていく。途中にまだ建設途中の高速道路の橋桁が見えた。ここにもやがて高速道路が繋がり、都心との距離はどんどん縮まって行く。いずれはこの果樹園ばかりの風景も少しずつ変わっていくのだろう。

 いずれは日本海へと続く大きな川を越えると隣の街だ。橋の手前に設置された温度計は三十二度を示していた。残暑はまだまだ続きそうだ。橋を渡り切ったところに町名を示す表示が現れた。懐かしい街。ずっと逃げ続けていた街。とうとう戻ってきてしまった。緩い下り坂の道を走るタクシーの窓から、万梨子は吸殻を放り投げた。

 

 街は様変わりしていた。街の中心部からずれた、かつては田んぼの中の一本道がすっかり整備された道になり、新しい店や家が立ち並んでいた。コンビニも何軒か見かけた。ちょっとした新興住宅地になったようだ。まるで千葉辺りの郊外のようで、東北の片田舎とは思えない風情になっていた。

 ガソリンスタンドの角を曲がって、街の中心となる通りにタクシーを向けさせた。喉が乾いていたのでどこか喫茶店にでも入りたかった。こちらでいいですか、と運転手が告げてメインストリートの交差点でタクシーが停まった。万梨子は料金を支払って交差点に降り立つと、辺りを見回した。かつては目抜き通りだった筈の通りは、大半の店のシャッターが降りており、歩道に人影はなかった。まるで枯れ果ててしまった街のように見える。駅のないこの街ではバスのターミナルが街の中心だった。それも今はシャッターの降りた、かつてはショッピングセンターだったと思われる建物の前に、バス停がぽつんとあるだけだった。先程タクシーで通りかかった、昔は町外れの道だった方が今では目抜き通りになってしまったようだ。かつての街の中心は、住人や時間といったものにすっかり忘れ去られたように佇んでいた。まるで全てが止まってしまったかのように。

 午後の陽射しが照りつける中を万梨子は町役場の方に歩いた。静まり返った中に蝉の声だけがやかましく鳴っていた。

 シャッターの降りた店ばかりが連なる中を歩くと、前方に町役場が見えてきた。町役場は以前と変わらぬ場所に立っていた。ちょうどその真向かいに営業している喫茶店を見つけた。ドアを開けて入ると、カウンターとテーブルが四つばかりの狭い店内には客はいなかった。いらっしゃいませ、とカウンターの中にいたアロハシャツを着た男が声をかけてきた。同じ年代に見える。もしかしたら同級生かもしれない。そう思うと万梨子は少しばかりの緊張を覚えた。窓際のテーブルに座りながら、自分は意識が過敏になっているのだ、と思った。よしんば同級生だとしても、もうあれから二十年も経っているのだ。自分もすっかり変わってしまった。誰も気づかないだろう。それに、そう思ったからこそ戻ってきたのだ。カウンターから出てきた男はテーブルに水の入ったコップを置くと、じろりと視線をこちらに向けた。それは探るような視線に思えたが、それも考え過ぎなのだろう。恐らく自分はこの街には少々場違いに見えるのだ。なるべく派手になりすぎない格好をしてきたつもりだが、それでも歌舞伎町からこの死んだような街にやってくると、違う空気を発してしまっているのかもしれない。それに、濃いサングラスのせいもあるのかもしれない。しかし、はずす気にはなれなかった。

 万梨子はアイスティーを頼むと、コップの水をひと口飲んだ。それは氷が浮かんでいるにも関わらず、生ぬるかった。店内には音量を絞ったAMのラジオが流れていた。アイスティーが届くと、万梨子は鞄からセーラムライトを取り出して火を点けた。煙を吐き出しながらぼんやりと窓の外を眺める。町役場に出入りする人はほとんどいない。そう言えばさっきから歩いている人をほとんど見かけない。それは新しく街の中心になったと思われる、新しい店の立ち並ぶ通りですらそうだった。

 この街は死にかけているのだろうか。

 ふとそんな思いが頭をよぎった。万梨子は煙をゆっくりと吐き出しながら、たぶんそれも考え過ぎなのだろう、と思った。恐らく皆車で動いているだけなのだ。それに、もしかしたら自分がこの街に住んでいたころからこんなものだったのかもしれない。あまりにも時間が経ち過ぎているのだ。それに、わたしは未だにこの街をどこかで怖がっている。そう考えると、思わず口元に苦笑が浮かんだ。

 動物園、とふと思い出した。この町役場の裏手には動物園があった。今でもあるのだろうか。子供のころ、本当に小さな子供のころ、熊の檻の前で、生まれて初めてツキノワグマというものを見た。思ったより小さいなと子供心にも思った。

 役場の前に広がる駐車場の向こうは神社だ。そういえばそろそろ祭の季節ではなかったか。お祭り。露店が立ち並ぶ光景は久しく目にしていない。祭の日だけは、どこから集まってくるのだろうというほどの賑わいだった。あの喧騒が懐かしい。子どものころはいつも胸がわくわくした。皆夜遅くまで出歩いて。浴衣を着て。母がお賽銭を投げて、わたしも一緒になって手を合わせてお祈りをした。太い綱を揺らすと、がらがらと音を立てて大きな鈴が鳴った。あのころ、わたしは何を祈っていたのだろう?

 アイスティーを飲み終わると、時計を見た。まだ二時を回ったばかりだ。万梨子は伝票を手に取ると、レジへと向かった。レジで精算するあいだにも、男はちらっとこちらの顔を覗き見たような気がした。

 

 喫茶店を出ると、通りを渡って町役場の駐車場を通り抜けた。途中、腰の曲がった老婆とすれ違ったが、老婆はこちらをちらりとも見ずに、ひたすら足元だけを見つめて通り過ぎて行った。町営動物園という文字と矢印が書かれた看板があったところを見ると、まだ動物園はあるようだ。万梨子はそちらには向かわずに、駐車場の裏手へと抜けて神社に向かった。いちょうの大木が連なる境内に人影はなく、ただ蝉の声だけが辺りを包んでいた。万梨子は拝殿の階段を上り、子供のころ母が小銭を投げ入れた賽銭箱に千円札を一枚放り込むと、手垢で汚れた太い綱を揺らして手を合わせた。何も祈ることは思いつかなかった。それからひときわ大きいいちょうの木陰に置いてあるベンチに腰を下ろした。

 やっぱり帰ろうか、と思った。歌舞伎町に帰ろうか。ここまで来たというのに、万梨子はまだ迷っていた。どこかに尻込みする自分がいる。怖がっている自分がいる。シャネルのバッグからピルケースを取り出すと、かかりつけの心療内科からもらっている安定剤と抗鬱剤を手のひらに取った。立ち上がって手水まで行くと、ひしゃくで水をすくって飲んだ。水は想像したよりも冷たかった。万梨子はもう一杯ひしゃくで水をすくうと、喉を鳴らして飲んだ。ベンチに戻り、煙草を取り出すと火を点けた。木陰は思いのほか涼しかった。心地よい風も吹いてくる。この辺がアスファルトに囲まれた東京とは違うところだ。日陰でも下から熱気が突き上げてくるような歌舞伎町を思った。ここは遠い。遥か遠くまで来てしまった。そう思った後で、自分は元々ここにいたことを思い出した。四方を山に囲まれて、蛙の鳴く田んぼの中で自分は育ったのだ。かつてはそれが嫌でしょうがなかった。学校帰りの雨上がりの道に、車に轢かれた蛙の死骸が延々と続くのをよけて歩きながら、ここから逃げ出すことばかりを考えていた。遠巻きに四方を取り囲む山々が、まるで自分をここに閉じ込めているように思えた。自分は地の果てに閉じ込められているのだと。

 万梨子は煙を吐き出しながら、自分が安堵を覚えているのに驚いた。まるで死にかけているようなこの街に来て、どこかにほっとしている自分がいる。ああそうだ、自分は疲れていたのだ。疲れ果てていたからここに来る気になったのだ、と思い出した。ここは静かだ。八方を取り囲む蝉の鳴き声もただ静寂を表しているに過ぎない。同じやかましさでも、きりきりと耳に食い込んでくる車のクラクションとはまるで違う。極楽浄土はこのように静かなのだろうか。この街も、自分も、もしかしたらここでは生きてさえいないのかもしれないと思った。その代わり泣き喚くことも、怒ることもない。かつては堪らなく退屈に思えたものが、いまではむしろ一種の優しさのように感じられるのが不思議だった。

 しかし、あそこでは違うかもしれない。

 あそこに行ってしまったら、この静寂も一瞬にして掻き消えて、怒鳴り声と泣き声が交錯するだけかもしれない。わたしが出て行ったときのように、妹もまだ小さいままで、何も分からずに顔をくしゃくしゃにしてしゃくりあげるのかもしれない。昼間から酒の入った父が何かを柱に叩きつけて割るのかもしれない。

 その幻想は枝葉を揺らす風のように通り過ぎて行った。後にはまた静寂が戻った。あれはもう昔のことなのだ。もう妹もすっかり大きくなって、そこそこ分別のある大人になっているに違いない。あの家にはもうおらずに、どこかの家の嫁になり、子供をあやしているのかもしれない。父も母ももはや老いさらばえて、喚き散らす気力も失せているかもしれない。何より、わたしがもう中年に片足を踏み入れようとしているくらいだから。万梨子は苦笑を浮かべると、煙草を足元に捨ててハイヒールのつま先で消した。

 

 神社を後にすると、役場とは反対側の通りに出た。この通りも少ない店の半分はシャッターが降りている。万梨子は文房具屋の角を曲がって、小学校の方へ向かった。学校の前の道は、びっくりするほど狭かった。これが大人になるということなのだろうか。相変わらず道行く人は見当たらない。五分も歩かないうちに、小学校と中学校が一緒になったグラウンドが見えてきた。グラウンドにも人影はなかった。そうか、まだ夏休みなのだ、と万梨子はようやく気づいた。

 正門の前まで来ると、体育館らしい見慣れぬ建物が目に入った。考えてみれば当然だ。大正時代だか、昭和初期だかに建てられた、あの木の廊下がぎしぎしと音を立てる骨董同然の校舎がいつまでも残っている筈はなかった。見上げると、それでも時計台の建物だけはそのまま残されていた。万梨子はそれを横目に通り過ぎながら、ぴかぴかに磨き上げられた、ところどころ凹凸のある古臭い廊下のワックスの匂いを思い出した。廊下を走ってはいけません。あのころはまだ純真な子供だった。女子トイレの奥から何番目かの扉を開けると、幽霊だかなんだか何か恐ろしいものが潜んでいるとまだ信じていた。しかし、人間はいつまでも子供ではいられないのだ。いつのまにか大人になる者もいれば、わたしのように無理矢理大人にさせられる者もいる。人生とはそういうもので、世間というのはそういうものなのだ、たぶん。

 小学校の角まで辿り着くと、二十年という時間の経過がもたらしたものは一目瞭然だった。かつてはそこから山側の地区まで、延々と田んぼが続いていた。今では二車線の立派に整備された道路にガソリンスタンドや店や地元の記念館などが立ち並び、その向こうの一面田んぼだったところには道路伝いに新興住宅が侵食を始めていた。隣接する市を結ぶためか、この道路はこれまでの中では比較的車の往来があった。それでも靖国通りや新宿通りに比べたら何も走っていないのも同然だ。

 万梨子は信号のない横断歩道を向こう側に渡ると、左手に歩いた。かつては街の中心部のはずれだった交差点まで来ると、右手の山側に向かって歩き始めた。子供のころはあぜ道同然だった道も、今ではいっぱしに舗装された通りになっていた。田んぼはまだ半分以上残っていたが、それでも道沿いには新しい住宅が立ち並び、田んぼの一区画が新しく番地がつくような街並になっている。山側に近付くに連れてそれも途切れがちになり、やがて両側に田んぼが広がる懐かしい光景になった。万梨子は歩きながら右手に広がる田んぼを眺め、中学時代を思った。バレー部の練習で田んぼの中のあぜ道を汗を流して走った。途中の田んぼの真ん中に、そこだけ取り残されたようにぼろぼろに老朽化した木の建物があり、そこは生活保護を受けている人のための町営住宅だった。隊列を組んで走りながら横目で見ると、土が剥き出しの庭で、真っ黒に汚れた子供が時間を持て余すように遊んでいた。それはアフリカかどこかの難民を思い起こさせた。クラスにひとり、その住宅から通っている女の子がいて、皆に汚いと苛められていた。万梨子は女子では率先して苛めの先頭に立った。現在の学校で起きている陰湿な苛めよりはもっとストレートだった。それでも酷いことには変わりない。触っただけで汚い、と男子も女子も彼女を触った手を誰かに擦りつけてまわった。彼女は浅黒い顔に悲しげな目をして、それでもじっとそれに耐えていた。今思えば彼女は結構強い子だったのだと思う。時折言い返してきたりもした。それでまたさらに苛めを受けたりもしたが、決して泣きじゃくったりすることはなく、ろくにシャンプーもしていないぱさぱさの髪の下の目は悲しげではあっても、絶望はしていなかった。わたしは何故あんなに苛めていたのだろう、と万梨子は思った。自分でも嫌な子だった、と思う。確かにわたしはあの子が嫌いだった。どんなに苛めても泣かずに見返してくる目を時折ちょっと怖いと思ったりもした。あのころははっきりそれとは気づかなかったが、明らかに人より恵まれない格好や環境に置かれながら、それでも彼女はプライドを持っていた。それが万梨子には憎らしかった。酷く傷つける言葉を吐きながら、顔では笑っていたが、どこか自分自身に腹を立てているところもあった。わたしはこの子のようなプライドを持てていない。もしかしたらわたしの方が惨めなのかもしれない。そんな思いが頭を掠めるたびに、万梨子の苛めはエスカレートしていった。いつのまにか万梨子は周囲から不良の類として目を向けられるようになった。素行の悪い女子の代表のように思われるようになった。それは強い存在である筈なのに、何故か万梨子はあの苛められている子のようなひとつのレッテルを貼られたような気がして、苛立ち、そして人のいないところでは密かに劣等感のようなものを感じていた。いつのまにか取り巻きのような仲間が出来ていたが、周囲から浮き上がってしまった孤独感のようなものがあった。万梨子はそれを払拭するために早く大人になりたいと思った。本当の意味での大人に。

 

 道の両側に次第にまた新しい住宅が現れてきた。それと共に山側の地区の家々も間近に迫ってくる。それは何故か以前と少しも変わらない風景のように思えた。それと共に時間も逆戻りしていくような錯覚を万梨子は覚えた。もしかしたらこの場所では誰も歳を取っていないのかもしれない。ふとそんなことを思い、軽い戦慄を覚えて万梨子は一度足を止めた。セーラムライトを取り出して火を点けた。深く吸い込んでフィルターのかかった空めがけて煙を吐き出すと、まだ薬が効くには時間がかかるのかな、と思った。

 咥え煙草のまま歩き始めると、万梨子は生まれ育った地区に足を踏み入れた。よく見ると、そこここに新しい家や店が建っており、確かに時間は過ぎていた。万梨子はそのことにほっとしながらも、自分がこれから向かう先のことを考えた。そこだけ時間が止まっていたらどうしよう。

 道の向こう側から小学生ぐらいの真っ黒に日焼けした男の子がひとり歩いてきて、すれ違いざまに物珍しげに万梨子を見上げていった。わたしが物珍しいのではない。咥え煙草で歩くサングラスの女が珍しいのだ。万梨子は自分にそう言い聞かせた。

 突き当たりを右に曲がった。緩い上り勾配の道を歩きながら、ここでも人がほとんど歩いていないことに安堵した。そうかと思うと、次の瞬間には先程のタイムスリップのような感覚が甦り、万梨子の心は揺れた。大丈夫だ。確かに時間は流れているのだ。人は皆老いていく。新しい者も生まれてくる。ここは確かに万梨子が育った場所であるが、それと同時にもはやそうではないのだ。ここはあのときと違う場所なのだ。そう言い聞かせてはみるものの、目に映る古ぼけた街並は、遠い記憶の中にある街並だった。庭先に柿の木のある農家。錆付いた看板をぶら下げた雑貨屋。道の傍らにちょろちょろと水が流れる側溝。古臭く、いかめしい塀を持つ旧家。ああ、ここにこそコンビニができていたらよかったのに。短くなった煙草を側溝に捨てながら万梨子は思った。吸殻はジュッと音を立てて消えた。

 視線を感じて万梨子は左手に目をやった。見ると、農家の庭先に立った老婆がこちらを胡散臭げな目でじっと見ていた。歳は取っているが、どこか見覚えのある顔だ。老婆は万梨子が目をやると、視線をそらして家の中に戻っていった。万梨子はそこが同級生の家であることに気づいた。すると、あれは彼女の母親なのだろう。あのおばちゃんも随分と歳を取ったものだ。もうどこから見ても干からびたような農家の婆さんだ。わたしもここに留まっていたならば、いずれはあんな風に干からびていったのだろうか。おばちゃんはわたしのことを気づいたのだろうか。いや、サングラスをしているので気づく筈はない。何より、わたしにはもはや昔の面影はない。茶色に染めたシャギーにした髪形もそうだが、ふっくらとしていた頬もこけてしまった。以前のはちきれんばかりに健康そうなわたしはどこにもいない。ここで育った時間以上の歳月を新宿で過ごして、わたしは変わってしまった。環境は人を変える。東京はわたしを作り変えてしまった。痩せこけてサングラスをした中年にさしかかった女、厚い化粧の下は血色の悪い、いかにも水商売という女に。

 気がつくと万梨子は口元に笑みを浮かべていた。それは自嘲なのか、苦笑なのか、自分でも分からなかった。どうやら薬が効き始めてきたらしい。ここはただの色褪せた、死にかけた田舎の片隅だ。どこかでヒグラシが鳴いている。赤蜻蛉が二匹、側溝の上を飛んでいる。ここは本当に田舎だ。地球上でも取るに足らない場所なのだ。何も恐れることはない。確かにここでは時間が経つのは遅い。東京に比べれば遥かに遅い。それに世界も狭い。わたしのような事件を起こした人間はいつまでも語り草になる。ひと月も経てば忘れ去られる都心のようなところではない。例え二十年経とうが、未だにわたしの名前がどこかの家の食卓で挙がることもあるだろう。だが、それがどうしたというのだ。それはこんな地の果てのような世界の片隅でのことで、何ほどのことでもない。死にかけている場所での記憶など、それ自体がサハラ砂漠で風に吹き飛ばされる砂の一粒のようなものだ。それはやがてさらに研磨され、目に見えないほどの粒子となって空気と混じりあってしまうのだ。おばちゃんが干からびていくように、それはいずれ消え去っていくものなのだ。完全に。

 

 万梨子の時間はまた中学時代に逆戻りした。万梨子には密かに思っている男子がいた。彼はクラスでトップの成績で、テニス部だった。優等生を絵に描いたような男子だった。同級生の女子生徒の間でも一番人気で、アイドル的存在と言ってもよかった。当然のように万梨子は告白などできなかった。凡庸な成績だったし、顔の造りが派手というだけで特に飛び抜けた美人というわけでもなかった。それに、そのころには既に不良のレッテルを貼られていた。彼が自分を選ぶ理由はどこにもないように思えた。

 三年になって、彼がクラスの一人と付き合っているという噂が流れた。その子は教師の娘で、成績もよく、日本的な顔立ちの、大人しくてどちらかというと可憐なタイプだった。万梨子とは正反対のタイプだった。万梨子は適当な口実をでっち上げて、その子を校舎の裏手に呼び出した。仲間数人を引き連れて。怯える彼女を、万梨子は生意気だと言って平手で殴った。いちゃいちゃしてんじゃねえよ、と言って。その帰り道の惨めな気持ちは未だに忘れない。わたしはなんでこんなことやってんだろう、と思った。

 中学を卒業すると、地元の高校に入った。中学での素行は噂になっていたらしく、入るとすぐに上級生の女子生徒数人に呼び出された。お前生意気なんだよ、と。入ったばかりで顔も知らない相手がどうして自分のことを生意気だと分かるんだろう、と思った。万梨子はそのままを口にした。相手は血相を変えて万梨子の胸を小突き、顔が生意気なんだよ、と怒鳴った。万梨子はリーダー格と思われるその怒鳴り散らす女の鼻に頭突きを食らわせた。女は鼻血を出しながら驚いて尻餅をついた。その後で、取り巻いていた数人にボコボコに蹴られた。しかし、それ以来、因縁を付けられることはなくなった。

 万梨子はずっと苛立っていた。好きな男が付き合っている女の子を脅したときの惨めな気持ちはいつまでもつきまとった。早く大人になることばかりを考えた。教師の注意を無視して口紅を塗って登校したりした。また取り巻きができ、今度は男子の不良生徒が近付いて来た。類は友を呼ぶという奴か。暇さえあれば屋上で煙草を吸い、授業はだいたい二時間目から出た。最初の夏休みに万梨子は処女を捨てた。相手は三年の不良グループのリーダー格だった。万梨子が痛がらず、出血もしなかったことから、相手は処女だと気づかなかったようだった。なんの快感もなく、それはただの通過儀式のように思われた。別に好きでもなんでもない男だった。相手はそれで自分の女になったと思ったらしく、知らぬ間にそれで周りには不良としてのハクがさらについてしまった。勝手にどんどんと自分がどこかに押し流されて行くのを感じた。万梨子の苛立ちはいつまでも収まらなかった。女になった筈なのに、少しも自分が大人になった気がしなかった。

 出血も痛みもなかったのは、何も中学時代のバレーボールのせいだけではなかった。万梨子の処女膜は、中一のある晩に酔っ払った父親の指でとうに破られていた。母親が気づいて、おとうさん、何するの、と泣きながらしがみついたときには、万梨子の下半身は既に血塗れだった。父親はそれ以来、目を合わせなくなった。当時は自分が大事なものをひとつ失ったのだということにはまだ気づかなかった。まだ本当に子供だったから。

 二年になると、例の上級生の男も卒業して、万梨子はひとつ何かから解放されたような気がした。そのころにあの男と出会った。男は放課後にたむろしていたスナックで声をかけてきた。四十代の、風采の上がらないオヤジだった。男は二万でどうだ、といきなり言ってきた。そのころの二万は万梨子にとって大金に思えた。それに、相手はつまらないオヤジとは言え、正真正銘の大人だ。いいよ、と万梨子は軽く答えた。その場にいた取り巻きの女子生徒は驚きに目を見張った。万梨子は意識して涼しい顔で男の後についていった。実際、まだ快感のないセックスなどたいしたことではないと思っていた。男の車で空港のそばのホテルに入った。その類のホテルに入るのは生まれて初めてだった。万梨子は部屋の大半をベッドが占める部屋を見て、今思えばそれは安っぽい場末のホテルだったが、内心胸が高鳴るのを覚えた。こんな冴えないオヤジを相手に何をどきどきしているのだろう、と自分でも不思議に思えた。男は先に財布から一万円札を二枚取り出した。万梨子には、それがまさに大人に一歩踏み出すための切符のように思えた。

 万梨子が何よりも驚いたのは、男とのセックスで達したことだ。これがセックスか、と初めて思った。いつのまにか万梨子は男の背中にしがみつき、爪を立てていた。終わってホテルを後にして、男の運転する車の助手席でぼうっとしながら、万梨子は何か大きな収穫を得たような気がした。罪悪感や後悔はどこにもなかった。これで自分は周りの子供のような同級生たちよりも明らかにひとつ成長したのだ、と思った。そのベクトルがどの方向を向いているかなどとは考えもしなかった。とにかく、万梨子の苛立ちは一時的に収まった。

 男とはそれから三度ほど寝た。そのたびに当然のように金を受け取った。

 ある日、校長室に呼び出された。そこには校長と教頭と学年主任、担任の四人がしかめ面をして顔を並べていた。主に喋ったのは学年主任だ。顔を真っ赤にしてまくしたて、問い詰められた。校長と教頭は眉間に皺を寄せながら時折うーんと唸るだけで、担任は俯いて黙ったままだった。結局、万梨子は退学になった。どこからバレたのかは分からなかった。誰かがチクったのか。誰かに見つかったのか。そんなことはもうどうでもよかった。むしろ解放された気分だった。

 親には学校の方から連絡が入っていた。母親は泣きじゃくり、父親は酒を飲んで万梨子を殴った。万梨子も殴り返した。妹はよく分からずに部屋の隅で泣いていた。

 自分が住んでいる場所がとんでもなく狭くて閉鎖的な世界だということに気づいたのはそれからだ。噂はあっという間に広まった。街中で万梨子の名を知らない者はいないように思われた。外を歩くだけで胡散臭い目で見られ、顔をしかめられた。そこら中でひそひそと陰口を叩かれているのが雰囲気で分かった。万梨子はもう出て行くしかない、と思った。ここにはもういられないと思った。そう思った晩に、鞄に荷物を詰めた。台所にあった母親の財布に入っていた現金をすべて抜いて、一睡もせずに朝を待った。まだ夜が明け切らないうちに家を出た。街の中心街まで歩いて、朝一番のバスに乗った。所持金は、例のオヤジにもらった金の残りも合わせて、十万にも満たなかった。バスに揺られながら、自分は逃げ出すのではない、と思った。自分の意志でここから出て行くのだ。この四方を山に囲まれた、八方塞がりのような地の果てから出て行くのだ。もう二度と戻ってくることはないだろうと思った。これでわたしはようやく本当の大人になるのだ。駅の待合室で東京行きの列車を待ちながら、万梨子は口紅を塗った。そして小さく微笑んだ。

 

 雑貨屋の自動販売機で煙草をひとつ買った。ここからはもう目と鼻の先だ。あそこの角を曲がって、三軒目だ。目の前をアゲハ蝶がゆらゆらと揺れるように飛び去って行った。彼らはいったいどんな顔をするだろう。わたしはいったいなんと声をかけるのだろう。やっぱり、ただいま、かな。なんでわたしはこんなところにいるのだろう。なんで帰ろうなんて思ったんだっけ。そうだ、わたしは疲れていた。疲れきっていた。もう自分の居場所がこの世界のどこにもないように思われた。帰る場所がどこにもないような気がした。それでようやく思い出したのだ。ここを。万梨子はゆっくりと足を踏み出した。

 

 そこには何もなかった。あるべきはずのものが何も。ただ雑草が生い茂っていた。

 万梨子はかつての門の辺りにぼうっと立ち尽くした。どこか違う星に迷い込んだ気がした。ただの空き地と化したそこに足を踏み入れる気はしなかった。ここはもうそこではないのだ。万梨子は足元の縁石に腰を下ろした。ヒグラシが遠くの方で鳴いている。煙草を一本取り出してライターで火を点けた。万梨子は足を組んで煙をゆっくりと吐き出した。声を上げて笑い出したいような気分だった。実際、口元には笑みが浮かんだ。そこでようやく万梨子はサングラスをはずし、シャネルのバッグにしまった。見上げるとフィルターをはずした空は真っ青というより水色で、子供のころ図画の時間に絵の具で塗った空の色を思い出した。こういうのを空色っていうんだな、と思った。真っ白な雲が浮かんでいた。万梨子はもう一度煙草を深く吸い込むと、足元に煙を吐き出しながら、小さく声に出して、ただいま、と言った。

 

 煙草を吸い終わると、万梨子は立ち上がって元来た道を引き返し始めた。歩きながら、ときどき後ろを振り返ってはその場所をもう一度確かめた。しかし、何度見ても、そこには何もなかった。曲がり角まで来て、横目でもう一度そこを見ると、雑草の上を飛び交う何匹かの蜻蛉が見えた。

 雑貨屋の前まで来て、ふと思った。もう一度引き返せば、今度はあるかもしれない。わたしの生まれた家が。そしてそこにいるかもしれない。わたしの家族が。しかし、もしいるとすれば誰ひとり歳を取らずにあのころと変わらないままでいるような気がした。それはちょっとぞっとしない考えだった。万梨子は肩をすくめると、真っ直ぐ前を見つめて歩き続けた。

 途中でいかにも主婦といった格好の中年の女とすれ違った。どこかで見たことがあるような顔だった。しかし、女はこちらをちらりとも見ずに通り過ぎて行った。向こうにこんもりと茂る木々の間から、寺の屋根が見えた。寄って行こうか、と万梨子は一瞬考えた。墓参りだけしていこうか。そう考えてから、もし新しい墓が建っていたらどうしよう、と思った。そこに皆の名前が刻まれていたら。しかし、何も変わっていないかもしれない。遠い昔、今日みたいな暑い日に家族と一緒に線香を上げたころと。お盆をもう過ぎていることに気づいた。新しい墓があるにしろ、ないにしろ、墓前には真新しい花が生けてあるのだろうか。それとも訪れる人もなく打ち捨てられたままなのだろうか。どれでも同じだ、と思った。彼らが生きていようが、死んでいようが。わたしはひとりで、ここは帰る場所ではない。万梨子は左に折れて、来た道を戻った。背中に故郷の家並みが遠ざかるのを感じながら。緩い下り坂を一歩ずつ踏みしめるように歩いた。来たときと同じように現実感はどこか薄かったが、帰り道は少し重力が軽くなったような気がした。それはたぶんサングラスをはずしたせいだろう、と万梨子は思った。

 

 街の中心に辿り着いたころには、足が棒のように疲れていた。これだけ歩いたのは久しぶりだ。ワンピースの背中にはうっすらと汗が滲んでいる。シャワーを浴びたかった。例のほとんどシャッターの降りた店ばかりになったかつての目抜き通りに、一軒だけ旅館があったことを思い出した。確か旅館の息子は同級生だと思ったが、そんなことはいまさらどうでもよかった。誰がわたしに気づこうが、気づくまいが。

 先刻訪れた神社のすぐそばに旅館はあった。しかし、こんな誰も歩いていないような街で、旅館などという商売が果たして成り立つのだろうか。目の前まで来ると、どうやら潰れずに営業しているようである。入り口わきの黒板にはどこかの御一行様という文字が一行だけ書かれてある。大方宴会なのだろう。年に一度の祭以外はほとんど見るべきもののない、こんな死んだような街に、泊り客などそうそういるわけがない。

 ガラス戸をがらがらと開けると、玄関先で誰かが出てくるのを待った。誰も出てくる気配がないので、すみません、と声をかけた。はい、という声がして、着物を着た初老の女が出てきた。万梨子はもう一度、すみません、と言うと、部屋はありますか、と訊いた。女はどうぞ、と言って膝をついてスリッパを出しながら、お泊りですか、と訊いた。

 通された部屋は二階の通りに面した角部屋だった。中庭もないこの旅館では、これでも一番見晴らしのいい部屋なのだろう。万梨子が宿泊カードに名前と新大久保の住所を書くと、初老の女はお食事はお部屋でいいですか、とだけ訊いてさっさと出て行った。今ごろは調理場か何かで、ひそひそと噂話でもしているのだろう。きっとわけありだよ、とかなんとか。女のひとり客などというものは滅多にないに違いないのだ。万梨子は女の煎れた茶をすすりながら、足を崩して煙草を吸った。そして何もないがらんとした部屋を見渡した。考えてみれば、ひとりで旅館に泊まることなど初めてだ。二十年前のあの日、東京に何も分からず着いた日も、新宿でナンパされた男の部屋にそのまま転がり込んだ。こうしてひとりでぽつんといると、旅館の和室というものはなんと広いのだろう。先程入り口で宴会の予定が入っていたことを思い出し、騒々しくなる前に、誰もいないうちに風呂に入ってしまおうと、浴衣に着替えて部屋を出た。

 

 一階の突き当たりが大浴場になっていた。万梨子は湯が沸いているのを確かめると、浴衣を脱いで湯船に浸かった。

 気持ちがよかった。まるで温泉のようだ、と思った。首まで浸かると、何かがすうっと、肩の辺りから足の先まで、凝り固まっていたものが溶け出していくような気がした。それは二十年ものあいだ、万梨子の中に凝固してしまっていたものだ。わたしは自由だ、と万梨子は思った。わたしは帰るところを失った代わりに、自由を手に入れたのだ。万梨子は身体を沈めて湯船に頭の先まで浸かると、ざぶんと頭を出した。

 脱衣所で身体を拭きながら、万梨子は鏡に映る自分を見た。痩せて貧弱な身体。乳房の下にはうっすらとあばらが浮いて見える。身体を回すと、背中の右上に二輪の蓮が咲いていた。客の幾人かは、これ、綺麗だけどちょっとシラけるね、と言った。若気の至りと言ってはそれまでだが、これから老いさらばえて行く自分の身体に、この蓮だけはいつまでもアンバランスに大輪の花を咲かせたままなのだろうかと思うと、憂鬱が顔をもたげた。結局、わたしはいつも自分から余計なものを背負い込んでしまうのだろうか。そういう宿命なのだろうか、と万梨子は思った。

 蓮を彫ったのは、二人目に同棲した相手だった。彼は親の跡目を継いだ二代目の彫り師で、その筋ではそこそこ名前の通った人間だったようだ。左門町の古びたアパートには、ひっきりなしに筋者が訪れた。彫り師自身の背中にも、親から入れてもらったという見事な観音像の刺青があった。万梨子は単純に綺麗だ、と思った。それで自分にも入れてくれと頼んだのだ。その彫り師とは、歳を偽って働いていた飲み屋で知り合った。やたらと寡黙なその男は、そのころ一緒に住んでいた、最初にナンパされた大学生に比べて遥かに大人に見えた。万梨子はその学生を簡単に捨てた。彫り師とは三年続いた。黙々と額に汗して一日中極道の背中に刺青を彫り続けるその男を、最初は男らしいと思った。しかし、年が経つにつれ、もしかしたら退屈なだけの男なのかもしれない、と思うようになった。男と暮らしているあいだは、万梨子は働かずに済んだ。実際、万梨子は退屈していた。このままこのほとんど口を開かない男と、極道の汗の匂いが立ち込める場所でわたしは老いて行くのだろうか、と考えるとたまらなく憂鬱になった。結局、三年目にその彫り師のところに刺青を入れに来た極道の元に転がり込んだ。そして、万梨子はまた仕事をするようになった。

 仕事と言っても、当時歌舞伎町で流行っていたノーパン喫茶だった。コマ劇場の前にある雑居ビルには、各階にノーパン喫茶が溢れかえっていた。万梨子はその中の、田舎のバスの待合所のような一室で、全裸にパンストだけという格好でウェイトレスをした。客はひっきりなしに来た。ベンチシートに妙に行儀よく肩を並べる客たちの間を、昼間からアルコールの入った万梨子はおしぼりや、馬鹿高い値段の味のないコーヒーを運んだ。自分は酷く馬鹿馬鹿しいことをしている、と思ったが、それよりもその自分を呆けたように見入っている客たちの方がよほど馬鹿げたものに見えた。それだけに自分をそれほど惨めだとは思わなかった。退屈するよりはよっぽどマシだ、と万梨子は思った。それに、こんな仕事でも人に見られるというのは、男が自分に対して欲情するというのは、女として快感でもあった。

 新しい男は中国人だった。万梨子がそれに気づいたのは、男の百人町のアパートに転がり込んでしばらくしてからだった。そんなことはどうでもいい、と思った。男の日本語はまったく流暢だったし、何よりも優しかった。だから男のために仕事にも出た。ただ、時折男の同郷の友人と称する者がやってくると、自分には分からない中国語で早口の会話が始まる。それをぼうっと見ながら、そういうときは彼が遠い存在に思えた。

 ノーパン喫茶の全盛期はあっという間に終わった。万梨子はファッションヘルスに仕事を鞍替えした。そのころはまだ手を使って男を行かせるのが主流で、確かに手は疲れて腱鞘炎みたいにはなったが、それほど深刻な仕事だとは思わなかった。むしろ、時折夕刊紙などが取材に訪れたりもするので、自分がもしかしたら芸能界とかタレントの世界の、隅の隅ぐらいにはいるのかもしれない、などと勘違いもした。

 男が所属する組織が、対立する台湾マフィアと深刻な状態に入ってきたことに気づいたのは、ヘルスに移って三年が経とうとするころだった。彼は常に苛々するようになり、どこか怯えているようにも見えた。時折、苛立ちからか、以前は振るわなかった暴力も振るうようになった。かと思うと、突然泣き出して、頼むからソープで働いて金を作って一緒に中国に行ってくれとしがみついてきたりもした。万梨子は腕の中で泣く男の背中を擦りながら、ぼんやりとそれでもいいかな、と考えた。しかし、万梨子にとって中国というのはあまりにも遠く、何も想像がつかなかった。大陸という広さが万梨子の想像の域を越えていた。そこに行けば、わたしにもまた家族というものができるのだろうか。それは何やら楽しげでもあり、一方では少々鬱陶しいもののようにも思えた。

 ある晩、仕事から万梨子が帰ると、アパートのドアの前にスーパーのポリ袋が置いてあった。それはずっしりと重そうだった。酷く嫌な匂いがした。生ゴミかなんかを誰かが嫌がらせに置いたのだろうか、と万梨子は顔をしかめながらゴミ捨て場に置こうとポリ袋の縛られた持ち手を持とうとした。そのとき、隙間から髪の毛のようなものがはみ出していることに気づき、悪臭をこらえながら袋の中を見た。途端に万梨子はその場で腰を抜かした。袋の中身は、男の首だった。もう四年も一緒に暮らしている男の。万梨子は薄暗い廊下に尻餅をついたまま、まるでひきつけを起こした赤ん坊のように、いつまでも甲高い絶叫を上げ続けた。

 

 部屋に戻ると、洗った髪をタオルで拭きながら、冷蔵庫に入っていたビールを飲んだ。通りに面した窓を開けると、微かに涼しい風が吹いてくる。窓に腰を掛けて、ビールの入ったグラスを傾けながら通りに目をやった。相変わらず通りを歩く人はほとんどいない。もうそろそろ日が傾いてくるころだろうか。昔からこの街は、夕方も七時を過ぎると出歩く人はいなくなるのだった。日が落ちたら、夕涼みに辺りを散歩でもしてこようか、とぼんやりと思った。

 通りの向かい側の角の、そこだけぽつんと営業している果物屋の店先に、珍しく客の姿があった。夫婦らしいカップルが店先に並んだすいかを選んでいた。歳のころは自分と同じぐらいだろうか。寄り添う姿はいかにも仲むつまじい雰囲気だ。男の方の横顔が見えると、万梨子はその顔に見覚えのあることに気づいた。万梨子が中学時代に片思いしていた男だった。歳相応に顔立ちはすっかり大人になっていたが、人懐っこい微笑み方は相変わらずだった。女の方が男を振り仰いで微笑んだ。あの夏の蒸し暑い日、万梨子が校舎裏に呼び出して殴った女だった。ふたりはとても幸せそうに見えた。風呂上りの身体に吹いてくる気持ちのいい風もあいまって、何故か自分も幸せなような錯覚を覚えた。大振りのすいかをひとつ、買って帰るふたりの後姿を見つめながら、気がつくと自分の口元に笑みが浮かんでいた。いい気分だった。万梨子は煙草を一本咥えて火を点けると、ビールをまたひと口飲んで、煙をゆっくりと吸い込んだ。それから、幸せってなんだろう、とぼんやりと思った。

 

 とりたててどうということのない食事を部屋で済ませると、万梨子は浴衣のまま旅館のサンダルを引っ掛けて外に出た。日が落ちかけて、昼の暑さが嘘のように涼しくなり始めていた。蝉の鳴く神社の方に歩いて、そこをやり過ごすと、役場の裏手へとゆっくりと歩いた。

 夕暮れの動物園に人は誰もいなかった。改装された檻は、万梨子が覚えているよりも小奇麗になっていたが、相変わらず特に珍しい動物がいるというわけでもなかった。熊の檻の前に立つと、コンクリートの床に物憂げに伏せているツキノワグマを眺めた。子供のころよりもさらに小さく感じた。大型の犬とさほど変わらないな、と思った。熊の黒目がちな目は、何故か悲しげに見えた。万梨子は柵の上に顎を乗せて、お前も寂しいのかな、とぽつりと独り言を呟いた。隣の鳥の檻から、甲高い鳴き声が聞こえた。

 

 つまらないテレビを見るのにも飽きると、早めに床に就いた。畳の上に直に敷かれた布団に寝るのは考えてみると久しぶりだ。それは思いのほか心地よかった。枕元の電気だけを点けて、ぼんやりと天井の木目を眺めながら、昼間のことを考えた。

 彼らに何があったのだろう?

 あそこで一体何が起こったのか。彼らは生きているのか、死んでいるのか。何故家までがなくなってしまったのか。火事でもあったのか。それとも単にどこかに引越しただけなのか。

 万梨子は最悪のことを考えてみた。酒に酔った父親が皆を道連れに無理心中して家に火を放つ姿を。それから夜中に一家して夜逃げをする姿を想像してみた。それらはいかにもありそうなことにも思え、一方では何故か酷く滑稽な考えのようにも思えた。どちらにしても、どこか遠い星の出来事のような気がした。どうしても知りたければ、近所の人に訊いてみればよい。その際、自分の素性はバレてしまうだろうが、それはもうどうでもいいことだ。生きているかどうかは、明日町役場で戸籍を見れば分かるだろう。もしただ引越しただけだとしたら、わたしはどうするだろう? 彼らを探して訪ねていくだろうか? 答えは否だ。わたしがここに帰って来たのは、場所が欲しかったからだ。わたしの中の彼らは、二十年前で凍りついている。そこから先の彼らは違う人間だ。わたしの知らない人たちだ。やはりここは違う星なのだ、と万梨子は思った。わたしは新幹線に乗って、違う星に辿り着いてしまったのだ。

 明日は地球に帰ろう、と思いながら、枕元の電気を消した。

 

 ポリ袋に入った血塗れの首の目が開く夢を見て、万梨子は夜中に目を覚ました。気がつくと全身にびっしりと汗をかいていた。万梨子は枕元の電気を点けると、起き上がって窓を開けた。どこかから聞こえる虫の声が辺りを包み込んでいた。枕元に戻って煙草のパッケージを取ると、それが空であることに気づいた。空のパッケージを籐のくずかごに捨て、バッグから新しい煙草を取り出して封を開けた。灰皿を手に窓辺に座ると、煙草に火を点けた。ふうと大きく煙をひとつ吐き出した。嫌な夢だった。あの人はいまごろどこにいるのだろう。天国か地獄か。それとも霊になって、あれほど帰りたがっていた中国に戻ったのだろうか。行ってみたかったな、中国、と思った。そこはわたしの居場所に成り得ただろうか。帰るべき場所に。

 夜風はひんやりとして、肌寒いくらいだった。もうそろそろソープも辞め時だな、と思った。客に、なんだ、おばさんか、と言われるのももううんざりだった。シャブを止めて以来、そこそこ貯金も貯まっている。結局、あの首を見てからのめり込んだシャブが残したのは、この貧弱な身体だけだった。ソープを辞めて店でも持とうか、と思った。小料理屋とかはどうだろう。しかし、考えてみれば、ソープで働きだしてからというもの、自分で料理などほとんどした試しがなかった。出来るとすればせいぜいスナックがいいとこかな、と思った。それも都心では難しいだろう。こういう田舎ででもないと。この街に戻ってスナックでもやろうか、という考えが頭に浮かんだが、そうして生きている自分をどうしても想像できなかった。それは単に生を消費して生きていくだけのように思われた。

 わたしはあのうだるような、蒸し暑いアスファルトの上に帰りたがっている。星ひとつろくに見えない街に。

 お嫁にでも行こうかな。

 ゲンさんのことを考えた。ゲンさんは大久保のマンションの隣の住人で、ビデオ屋の店長だ。彼とは寂しくてたまらないときに何度か寝た。万梨子がシャブを止めるために入院したときも何度か見舞いに来てくれた。彼は柄に合わない花束を持ってきて、ベッドの脇に腰掛けると、照れ臭そうに下を向いて、なあマリちゃん、ソープなんか辞めてオレと一緒にならないか、と言った。ゲンさんはホントにいい人だ。いい人過ぎて、万梨子は恋愛云々という気持ちにはなかなかなれなかった。ゲンさんといると本当にほっとする。友達と呼ぶのにふさわしい人間がいるとすれば、ゲンさんだと思っていた。ゲンさんが友達じゃなくなれば、わたしは本当にひとりぼっちになってしまう。そっちの方が怖かった。だから万梨子は、ごめんね、ゲンさん、友達でいようよ、と言ってしまったのだった。ゲンさんは俯いたまま、そうか、でもオレいつまでも待つよ、とぼそぼそと呟いてたっけ。

 ゲンさんは岡山の生まれで、かつては結婚していた。奥さんが若い男と心中してしまって、東京に出てきたのだそうだ。わたしと同じように、田舎はそういうことがあるといづらいようだ。髪が薄いので老けて見えるが、わたしよりもふたつかみっつ上だ。一度店に中国人の強盗に入られて、頭を何針か縫った。見舞いに行くと、いやあ、今の新宿は怖いねえ、と笑っていた。

 ゲンさんのことを考えていると、自然に笑みが浮かんでくるのが分かった。もうちょっと早く出会ってればよかったな、と思った。わたしがまだ若くて、こんなにガリガリに痩せる前で、背中に刺青を入れる前で。あ、そうか、そのころはゲンさんには奥さんがいて、岡山にいたんだ。岡山か、行ってみたいな、と万梨子は思った。

 やっぱり産もう、と万梨子は思った。わたしは何を悩んでいたのだろう。なんでこんなところに帰ってきてしまったのだろう。明日朝一番の新幹線で帰ろう。そしてゲンさんに子供ができたことを告げよう。そしてただいま、と言おう。

 万梨子はこの見知らぬ星の暗闇に向かって煙を吐き出すと、灰皿に煙草を押し付けた。

 

<了>