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「嫌な話」

嫌だ...

こうせこせこした都会に長く住んでいると、自然の摂理というものの厳しさに触れる機会があまりない。水槽の中に閉じ込めることによって、自然を自分の手の中に収めたような気になってしまうのは人間の傲慢さに他ならないのかもしれない。

去年の年末から飼い始めたうちの熱帯魚もとうとう数が半分近くになってしまった。前に書いたメダカ(みたいなやつ)の一匹が死んでしまったあと、もう一匹も死に、メダカは一匹だけになってしまった。6匹いたテトラも先週末から白点病という病気にかかって、今日までに残ったのはとうとう一匹だけ。しかし生き残ったさかなたちはみな一様に元気だ。

最初のメダカが死にかけていた翌日から、姿が見えなくなった。2匹目が弱って、姿を消した日に死骸はどこに消えてしまったんだろうと水槽の中を覗いていたら、底に沈んだ死骸を他のさかなたちがついばんでいた。テトラが死に始めてからはさすがに見るに忍びなくて、3匹までは死んで浮いた時点で掬い取った。でも他の2匹はやはり食べられてしまった。これも自然の摂理なのだろう。仲間を食べる魚をなんて奴らだと思ったり、食べられるのを見るに忍びないと思うのも、人間の傲慢さなのだろう。

先日、以前勤めていた会社の後輩(熱帯魚を飼ったことがある)が、数が多すぎると共食いを始めるそうですよと言っていたのだが、世の馬鹿な親たちと同様、僕もうちの子に限ってなどという楽観をしていたのだが。今回の場合はどちらかというと数が多すぎたことより、弱ったものが強いものの餌になったという感じだ。弱肉強食。これが紛うことなき自然の姿なのだ。そしてこの環境をつくったのは僕という人間なのだ。

してみると、人間もこれまた同じ自然の作り出したもの。かの有名なアンデスの飛行機事故による人食事件(タイトルは忘れたが映画化された)、ドキュメンタリー映画「ゆきゆきて神軍」で暴かれる戦時中の戦友の死体を食べた話。モラルと本能のバランスが崩れるとき。もしかしたら一番残酷な自然回帰かも知れない。

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