structural defect

「構造的欠陥」

...

僕は小学校に入るとすぐに、医者に心臓肥大だと言われた。それ以来、一度も言われたことがないところを見ると、僕の心臓は成長を止めてしまったのだろうか?

小学生のときの僕は慢性の頭痛持ちだった。両親が心配して、一度仙台にある大学病院で精密検査を受けた。僕はベッドに横たわり、頭のそこらじゅうに電極を繋がれて、脳波を調べられた。しかし、どこにも異常は見つからなかった。今思えば、あれも一種の精神的ストレスから来たものではなかっただろうか。最近の僕のように。とにかく、僕が精神的ストレスで頭痛を起こすような子供であったとしても、別にそれは不思議なことではない。或いはそれは、身体のどこかが微妙にバランスを崩していただけなのかもしれない。

考えてみれば、僕という人間はそこらじゅうに構造的欠陥というものを抱えて生きている。

例えば、僕の右手の小指の第一関節から先は内側に曲がっていて、僕はそれを小さいころから弾いていたピアノのせいだと決めつけた。僕はピアノをその分量だけ憎み、なんとか真っ直ぐにならないものかと左手で力一杯曲げてみたりした。しかし、人間の身体はそんなことぐらいで簡単に曲がるわけはなく、ただ痛いだけだった。

例えば、僕の背中には前にも書いたように痣がある。それに気づいたのは高校に入ってからで、僕ではなく両親が気づいた。考えてみれば自分の背中を見る機会など滅多にない。これも皮膚科で診てもらったが、どうやらただの色素のかたまりらしい(らしい、というところがポイントだ)、ということだった。僕は諦めてそれを背負って生きていく決心をした。思春期のころにできた構造的欠陥は他にもあって、これも前に書いたが、左手の人差し指の爪の付け根にイボができたとき、医者に何度が注射を受けて、それ以来爪が不恰好に歪んでしまった。これらの思春期にできた、あるいは気づいた後天的な構造的欠陥というのは、必要以上になにかとんでもないものを背負ってしまうことになったような気分に僕をさせた。

しかし、考えてみれば本来もっと深刻なのは先天的に、遺伝学的にもたらされたものであろう。僕の家系は僕の知る限り、祖母の代から消化器系、特に胃が弱い。おまけにこれは父方、母方を通して目が悪い。もうひとつ、酒が弱いという遺伝もあるが、これは果たして欠陥なのかどうなのか未だに分からない。社会的観点から見れば、欠陥にあたるのかもしれない。胃の弱さにしても、未だに僕の体型を少年のころから変わらないものにしているところを見ると、視点を変えれば欠陥と呼べるかどうか怪しい。

ただ、視力の弱さは困ったものである。僕は子供(小学生)のころから寝床で本を読む癖があり、それでまず左目の視力が落ちてきた。それにつられるように右目の視力も落ちてきて、高校生のころから目をしかめる癖がついた。眼鏡をかける決心がついた(というよりも、それなしではもはや人の顔も判別できなくなった)のは大学に入ってからである。お陰で、クラスの口の悪い、いささか陰険な同級生からはよく目つきが悪いと言われた。

そうそう、後天的と言えば、僕は歯も弱い。これは遺伝というよりもむしろ意志の弱さのような気もするが、小さいころあまり歯も熱心に磨かず、牛乳もほとんど飲まず、おまけに甘いものばかり食べていたせいで、僕の歯は今では自前のものは数えるほどになってしまった。下の奥歯に至っては、この年で既に両方とも入れ歯である。いくら見かけが若いと言っても、年のワリには肌がきれいだ足がきれいだなどと言われても、部分的に見ればこれではまるで老人だ。

他にも書き始めたらきりがないほど僕には構造的欠陥があるに違いない。もしかしたら本が一冊できあがるぐらいに。例えばいささか深刻なものとしては、祖母が胃癌で亡くなったことであるとか。実際、先日の109事件のように突然体調を著しく崩したときなどは、世界中で健康ほど必要かつ重要なものはない、と思ってしまったりもする。しかし、一番厄介なのは実は構造的欠陥ではなくて、精神的な弱さだなあ、としみじみと思ったりするのである。

written on 19th, aug, 2001

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