美しい世界

2月14日、金曜日。

酷いことを言われた。彼女は人を不愉快にさせることに関しては天才的だ。そういう才能を何かに生かせないものかと思うが、要は自滅型というか単に破滅型の人間であるというだけなのかもしれない。そういうことをこれまでは可哀相と思ってきたが、さすがに物事には限度がある。メンヘラ女子というのは自己中モンスター、情緒不安定モンスターである。それが故にメンヘラ女子はまともな恋愛ができないとか、恋愛が成就しないということを可哀相と思うが、所詮はモンスターなのだった。ある意味に於いてはサイコパスなんかと大差ない。

きっかけは僕の常識のなさだった。昨夜話していて、僕がいつも同じ服を着ているとか、同じパジャマを着ているという話になって、下着以外は下手すると一冬洗濯をしないということに彼女が唖然とした。当然である。以前からなんとなく気にはなっていたが、改めて驚かれると物凄くショックだった。なんていうか、いまさらになっていかに自分が常識がないかということに気づいて愕然として落ち込んでしまったのである。彼女に「無理、無理」と言われたのもあって、完璧な抑うつ状態というかある種のショック状態に突入してしまった。簡単に言えばあまりにも自分自身にがっかりしてしまった。それでも昨夜の彼女は大丈夫と言って手を繋いで寝た。しかし、今朝起きてもまだショックから立ち直れていなかった。依然として自分自身にがっかりし過ぎたままだった。

そんなわけだから意気消沈して朝食を食べ、食後の珈琲を飲んでいると彼女が突然キレた。のちのちの電話によると、僕の態度が気に入らなかったから、ということらしい。とにかく突如として彼女はキレて喚き散らし、なんだかんだというので僕は荷物をまとめて帰った。こうなったら彼女はどうしようもないからだ。

最初の電話がかかってきたのは県境の山道を走っている途中だった。それは「ごめんなさい」という電話だったが、何しろ山道を運転中なのでと僕が言うと、着いたらかけ直して欲しいと彼女は言った。実を言うと彼女の家を(嫌な気分で)出たところまではまだ彼女のことを好きだという気持ちだった。ところが帰りの山道を延々と運転している間中、悪いことばかりが頭に浮かんでくるのだった。もううんざりだとかそういう気持ちばかりが湧いてくる。それは募るばかりでいつまで経っても止まなかった。県境の山を下りて走っているころには、僕はもう彼女のことが嫌いなのだ、と思うようになっていた。そしてそれは自宅に辿り着くまで続いた。

帰宅してフルーツグラノーラの昼食を済ませて珈琲を飲みながら、パソコンに向かって、帰り道に考え過ぎて頭が痛くなったのでこちらからは電話をかけたくないとLINEのメッセージを送った。すると、二度目の電話がかかってきた。今度は先ほどの「ごめんなさい」というときとは声が低くなり明らかに変わっていた。案の定どっちがいいだの悪いだのという話になった。先ほどの電話とはまるで別人だった。三度目の電話は母の病室にいるときにかかってきたので、「今病院」というとすぐに切れた。帰りの山道の途中で特養から電話がかかってきて、母は来週の火曜日の午前中に退院することになった。

四度目の電話は、病院から帰宅してまったく食欲がないのになんとかコンビニから買ってきたリゾットの夕飯を済ませた後にかかってきた。今度は「仲直りしよう」という電話だった。なんだか無理に明るい声を作っているようだった。彼女は何度も「仲直りしよう」と言ったが、僕が電話するたびに言うことが変わると言った途端に声の調子が変わった。それでも彼女は仲直りしようと言ったが、僕は一言も声に出せなかった。何も答えられなかった。僕が無言でいると電話は切れた。

それからほどなくして五度目の電話がかかってきた。それはあらん限りの罵声だった。「マザコンで、モラハラで、子供で」という辺りまでは聞き取れたが物凄い勢いだったので後はよく分からず最後に「最悪!最悪!最悪!」と三連呼(だったと思う)して電話は切れた。酷いことを言われた。彼女にモラハラ呼ばわりされるのは、散々誰かをいじめた挙句に最後にそのいじめた相手を指さしてこの子にいじめられたと言うようなものだ。何よりもマザコンという言葉は一番傷ついた。

結局のところ、帰り道の途中から思った「彼女を嫌いになった」という言葉はこの間ずっと頭の中で鳴り続けていたのだった。まるで自己暗示のように。

それから電話もメッセージも途絶えた。どうやらようやく彼女と縁を切ることが出来たようだ。もちろん罵声を浴びたことで途轍もなく嫌な気分になったが、とにかくその気分を抑えようと思った。そのためにちょっとだけトレードもしてみた。「ジョン・ウィック」の続きも見てみた。だが映画を最後まで見ることは出来なかった。頭の中に、彼女と一緒に見た美しい世界が浮かんだ。

さよなら、おバカさん。マイ・ファニー・ヴァレンタイン。

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