さよならという警告

4月17日、火曜日。

映画を一本見た。

何故この話が地味だったかというと、確かに衝撃の事実というのはあるのだがそれはひとつだけで途中で明らかになり、後はそれを延々と咀嚼するばかりだから。たまたま何の情報もなく見たけれど、実は予告編とキャッチコピーでその肝心な衝撃の事実の部分が分かってしまうという、つまりネタバレで始まるという奇妙な映画会社の戦略。まあそれが分かっていると冒頭の延々と続く息苦しい濡れ場の見方も変わるのだろうがそれにしても。

考えてみると、これまでの人生で「さよなら」と言ったことがない。もしあるとすれば、田舎に帰ることを決めて飼っていたカメを川に放したときだろう。とにかく、少なくとも大人になってから、人間に向かってさよならと言った記憶がない。それは重大な決心を持って言うか、あるいはただの軽い挨拶として言うかのどちらかになると思うのだが、後者の習慣は僕にはなかった。僕は「さよなら」じゃなくて「じゃあね」という人間だった。つまり、ほとんどの局面はさよならと言わないことによってある種モラトリアム化したいという願望があったのだ。簡単に言えば潔くない。出来れば自分から訣別はしたくないという感情がどこかに働くのだろう。確かに「もう会わない」と自分から決めつける局面はいくつもあった。だがその場合も「さよなら」とは言わなかった。理由はよく分からないけれど、なんだか「さよなら」と言ってはいけないような気がするのだ。たぶんそれはそこに明確な線を引くことだから。僕にはそういった明確で確固たる線を引く勇気がない。

簡単に「さよなら」と言える人はちょっとずるいと思う。
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本日のメインイベントであるACLグループリーグ、鹿島対水原は0-1で鹿島が負けてしまった。どっちにしてもグループリーグ通過はもう決まっていて、これで2位通過が決まっただけなのだけれど、それにしてもなんでこんなに悔しいのだろう。鹿島が負けるたびに臍を噛む思いをするようでは。

この日記を毎日読んでいる人なら気づいただろうが、一昨日ぐらいから書き方を変えている。ブログ化、脱日記化しようとしている。具体的には日記として時系列順に出来事を書くのではなくて、最初になんとなくタイトルを書いてそれについて書く、という手法にしている。つまりお題について書くというわけ。まあ即興である。いつまでこれが続くのかは分からないが。それに、fragmentsとの差別化をどうするかという問題もある。

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