世界の果て

3月9日、金曜日。

誰も知らないような山形のこの片田舎の町に帰ってきてもう5年になる。ふと思うのは、もうこの先これ以上どこへも行けないのではないかということだ。つまりここが世界の果て、どんづまりであって、ここから先どこへ行ってもそれは後戻りするだけのような気がする。確かにここから北へ向かうと北海道まですべて行ったことがあるので、過去へ向かうような気がしてもおかしくない。しかし、西とか南に向かえば、日本国内であっても行ったことがない場所はまだまだたくさんあるのだが、実際問題としてそういった見知らぬ土地に行ったとしてもそこで覚えるのは既視感ではないかと思うのだ。例えばそれがマケドニアとかアイスランドとかそういうところであったとしても。

昨日からの続きで、たぶん四度目ぐらいになる「JIN -仁ー」(シーズン1)を最終回まで見てまたボロ泣きした。次にどういうシーンでどういう台詞かまで分かっているのに、まるでパブロフの犬みたいに、例えば武田鉄矢の嘆息が聞こえた途端に顔が火照って涙が出るのだった。そしてすべて見終わると、少し脱力する。なんだかまだ何も終わってないような気もするしすべてが終わったような気もする。それにしても涙もろい僕ではあるが、泣くというのはそれだけ夢中になっているということでもあるから、それなりに気持ちがよかったりする。そして、なんだか分からない気持ちで胸が一杯になる。しかし、かなわぬ恋というのはどうしてこう切ないのだろう?

今朝は8時39分に起きた。それにしても今週は極端である。一日おきに朝に起きたり昼に起きたりしている。午前中はそれなりに眠かったのだが、午後になって相場のトレードがひと段落したところで昼寝しようとベッドに潜り込んだのだが、不思議なことにまったく眠くなくて眠れる気配もなかったので諦めた。

3時過ぎに特養に電話して四日振りに母に会いに行った。母はまたしても僕を見ると一瞬目を輝かせて笑顔を浮かべる。それだけでも救いになる。例によって静養室のソファに並んで座って話していると、母が「オレ(以前も書いたが山形弁では女性の一人称は「オレ」である)、ここ(特養)に来て3年ぐらいになるか?」と訊ねるので、「もう四年」と答えながらなんだか胸を衝かれる思いがした。それは酷くむごい年月のような気がした。母にとってもまた、そこはどんづまり、世界の果てなのだった。

「JIN -仁ー」みたいにタイムスリップ出来たらどんなにいいだろうと思う。が、実際は一年どころか一日たりとも戻れた試しはない。当たり前だが。だが冒頭に書いたように僕は既に世界の果てにいて、もう随分前から後ろ向きにあとずさりしているだけのような気もする。ただ一向に進まないだけで。ドラマの中の台詞にもあったように、人生は僕が考えている以上に美しいものなのかもしれない。だがそれはいつまで美しいのだろう? どこまで美しいのだろう?

ここしばらく雪は降っておらず、昨夜も夜通し雨が降って雪も大分融けた。残っているのは薄汚れた根雪だけだ。だがそのまだ残っている雪景色を見るとほっとする自分がいる。それはつまり、ここはまだここのままだということだから。

結局のところ、ここは終わりではなくてまだ続きはあるのだ。そして、たぶんそれこそが美しく素敵なことなんだ。

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