メタファー

10月8日、日曜日。

という具合に今日も頭痛から始まり、結果想定外の早起きをしてしまった。まったく、なんにも予定がないのに。いずれにせよ、起きてしまったものはしょうがない。朝食を摂りながらツイッターのタイムラインを追っていると、NHKで党首討論をやっているというので珍しく午前中からテレビをつけてちょっと見た。が、「日本のこころ」の党首がいきなり「安保法制に反対するのは北朝鮮・中国に味方をすることだ」などというトンデモ理論をぶち上げ、すっかり馬鹿馬鹿しくなって途中で止める。

なんの予定もないと思いつくのは業務に行くことぐらい、正直三連休なんて混んでるだけだから非常に気が進まないのだが、かといって家にいて何をしたらいいのか分からず鬱屈するのも考え物。早めに行ったので結果まだそれほど混んでおらず、先日のネタに座ったものの、やっぱりクオリティは足りない。なんで俺はこんなものを打っているのだろうという疑問を常に抱えながら、結局はツキだけで勝負するしかない。そんなわけだから当初はどうせヒマなのだから日中一杯粘ってやろうなどと思っていた気勢もすっかり削がれ、プラスになったところでとっとと帰る。

昨日の天気予報で今日は暑くなると言っていたけれど、まさかこの辺まで暑くなることはあるまいと思っていたが本当に暑くなった。暑いなあと思いながら窓を開けて帰宅後昼寝。あとはだらだらとネットで動画を見たりして過ごす。

夜、ツイッターのタイムラインを見ていてカズオ・イシグロの文学白熱教室をEテレでやっていると知り、見たんだけど非常に面白かった。いろいろ刺激になった。そういえばまた小説を書こうと思ったのはどうなったのかとか。イシグロが小説を書くときはそれがどんなメタファーになり得るか想像して書く、というのは非常に興味深かったけれど、では自分がかつて書いた小説はなんかのメタファーになっているだろうかと二つの長編小説、「幽霊譚」と「ホリデイズ」を頭の中で再現してみると、もちろん書いているときはそんなことは考えていないが無理やりメタファーになっていると言えなくもない、ということに気づく。それは例えば「ホリデイズ」であれば現実の曖昧さとか不確かさとかになるのだが、でもそれはそれが頭にあって書き始めたものではなく、書いているうちに最後の方でそうなった、という感じである。「幽霊譚」の方は言葉にするのが非常に難しい。ある日幽霊が訪ねてきてそれに恋をしてしまうという実に古典的なただそれだけのアイディアで書き始めたものなので。結局のところ、当時の僕は面白いものが書ければそれでいい、ということしか頭になかったわけで、イシグロのように真実や心情、あるいはイメージをいかに伝えるか、というようなモチベーションで書いたものではなかった。ただ一人称で書いたことによって、結果的に心情を伝えることにはなったのである。そういう、ただこの話を面白くしたいというある種の熱情に駆られて書いたものが結果としてなんらかのメタファーになっているかどうかというような検証を僕自身はこれまでしたこともなく、そういう意味では今日の番組では違う視点で書くというヒントを与えられたような気がしないでもない。

だが問題は僕自身の中にまだそういう情熱が残っているかということだ。少なくともこの15年ほどは、うつ病であることを理由にありとあらゆるモチベーションを失ってきたし、ついでを言えば悪性リンパ腫という癌になって体力を失った。でもそれは単なる言い訳に過ぎず、例えば闇雲に小説を書いた2001年の一年間は既に心療内科に通っていたころだったし、体力などは筋トレや運動をすれば必然的に身につくものだ。つまり僕は長いこと自分自身に(またありとあらゆる人や社会に)言い訳をし続けてきたわけだが、もしかしたらそういうことすらもある種のメタファーとして使える可能性もある。ただ僕に欠けているのは持続性である。モチベーションの持続性。これはまた、分かっちゃいるけどやめられないみたいな。言い換えれば僕はただ単に怠惰な人間であるのだろう。だから無理やりこじつければ、2000年以降の僕の人生は、「怠惰」ということのメタファーであると言えないこともない。

なんかこのような考察は馬鹿げている。これではすべてがメタファーになってしまう。メタファーのためのメタファー。しかしながら、それでもいいんじゃないかという気持ちがどこかにある。

それはともかく、今日気になった動画はこれ。

恐らく深い意味や意図は何もなく、ただ単に綺麗な映像を繋げただけなんだろうけど、結果的にツイートにも書いたように人生を示唆しているように見えてしまう。これもある種のメタファーだ。

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