深夜の徘徊

7月31日、月曜日。

昨夜の入浴時の体重が標準体重よりも1.5kg多い人生始まって以来の体重だったので、さすがにこれはまずい、人様に顔向けできないと思ってスクワットをやったり、深夜23時過ぎに散歩したりした。散歩は表通り(というほどのものでもないが)に出てから左手に行って最上川方面に歩き、母のいる特養の前を回ってきた。正味25分程度の散歩だけれど、最近全然歩いていないのでこれでもじっとりと汗ばんだりした。実際、あまりにも歩いていないものだからただ椅子に座っているだけで膝に来たりするぐらいで、相当深刻だ。深夜の田舎町は人っ子ひとり歩いておらず、真っ暗な肉屋の店先に停まっているトラックがライトも点けず何故かエンジンだけかかっていたり。

78年のラリー・カールトンのソロアルバム、「Larry Carlton」は「夜の彷徨」という邦題がついていた。それはたぶんアルバムの中の一曲に「Nite Crawler」という曲があるのでそこからつけたのだと思うが、直訳すれば「夜に徘徊するもの」となる。都心に住んでいれば深夜に出歩くことなどまったくもって当たり前の普通のことなのだが、昼日中からあまり人の歩いていない山形の片田舎のこの町では、夜に出歩いているだけで不審人物になる。

夜の徘徊→歌舞伎町→学生のときにバイトしていた中野の喫茶店という連想ゲーム。

というようなことを思い出した。歌舞伎町といえばやっぱり学生のとき、ハコバン(キャバレーなどの店の専属バンド)専門のプロダクションのマネージャーに、歌舞伎町のコマ劇場前のキャバレーでギターを弾かないかと誘われた。コマ劇場の斜向かいの角のビルの上で、最近はなんとかというライブハウスになってたが、当時は比較的大きなキャバレーだった。頭の薄くなった50絡みのしょぼくれたおっさんであるベースのバンマスに紹介された。ドラムの人は比較的若かったように思う。要は酔客の伴奏をするのである。マネージャーは「あのキュイーンていう奴だけやめてくれ」と言っていたが、たぶんチョーキング(ベンディング)のことだと思う。店にはビッグバンドも入っていて、薄暗い廊下でビッグバンドのギターの青年がうずくまってスケール練習をしていた。それを見て、ああ暗いなあ、ここでギター弾いたら暗い人生になるなあと思って結局断った。今考えてみると、歌舞伎町で毎晩ギターを弾くというのはなかなかに面白い体験になったのではないか、などと思う。恐らく今までとはまったく違う人たちと知り合ったことだろう。そういえば当時のコマ劇場の向かいのビルの一階に、テレフォン喫茶というのがあった。これはのちに蔓延するテレクラなんかとは違って、ただ単に喫茶店のテーブル席全部に電話機(つまり固定電話)が置いてあっただけである。中に入ったことはなく外から覗いただけなのであまり定かではないが、確かモスグリーンのような緑色の電話機だった。いわゆるピンク電話みたいな公衆電話用の大きい電話機ではないので、一体どういう使い方をしたのかよく分からないのだが、もしかするとゼロ発信でかけられて後で精算するとかそういうものかもしれない。まだ携帯どころか留守番電話すら珍しかった時代、各テーブルごとに電話機があったので、少なくともテーブルに座ったままでかかってきた電話を取れる(番号を相手に知らせればの話だが)ともいえるが、実際問題としてどういう使い方をしていたのかはついぞ分からない。

あ、なんだか全然日記になってない。いつの間にか頭の中が中野のブロードウェイの裏通りとか歌舞伎町で一杯になってた。

今朝は9時9分という最近の中では比較的ましな時間に起床。相場の想定をして指値を置いてから今日も業務(懲りない)。で、今日もツイてない。がしかし、バチが当たったというほどの感じはせず。帰宅後、やっぱり昼寝。一応相場のチャートの上下にアラートを置いて。で、アラートの音で目が覚めるがま、いいやとまた寝てしまい、結局指値が成立した音で起きる。この指値が結果的にはなかなかに本日の最高値ジャストなところで成立していたのだが、そんなこととはつゆ知らず、6時ごろに決済してしまう。後から思えば残念。引っ張ればよかった。

ん? 母のところから帰宅後、夕食後の記憶が怪しい。23時過ぎに散歩に出るまで何をしていたんだろう? プチ記憶喪失っぽい……。ああ思い出した、珈琲を飲みながら一応相場のチャートを見ていて、少々ポジションを取ったのだった。やれやれ。

今日は一応腹筋と腕立て伏せもやった。問題は続けられるかどうか。

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