誕生日に思うこと

7月19日、水曜日―7月20日、木曜日。

日付が変わって、58歳という恐ろしい年齢になりました。なんていうか、いろんなものが問答無用で論外という感じ。もはやモテるとかモテないとかいうこととは別次元の世界にいるんだなという。

日付をまたいで煙草を吸いながら誕生日を迎えてまず思ったのは、アラートまで置いておいたのにドル円を111円85銭で売れなかった、15ピップス取り損ねた、ということだった。要するにこの歳になってもいまだに勇気がない。たぶんもう一生ないんじゃないかなあ、ある種の勇気。勇気とヤケクソはどこか似ている。いまのところ、自分がいたずらに年を取っているのかそうじゃないのか、さっぱり分からない。理屈の上ではその分思い出が増えているはずなのだが、なんだかそういう実感もあまりない。単純に年々ハードディスクの容量が増えるみたいに記憶容量が増えていくわけでもないので。とはいうものの、完璧に忘れるものというのも案外となくて、何かきっかけさえあれば不意に思い出したりもするので、脳の記憶のキャパシティというのは僕らの想像以上に大きいのかもしれない。

ひとまず、誕生日といえば自分の場合はこれだ。

もうこの曲を作ってから16年が経つのだなあ。ちょうどサイトを通じていまみちくんと知り合ったころだ。うつ病になって1年ぐらい経ったころ。当時僕は神戸のケイと付き合っていて、彼女の誕生日プレゼントにこの曲を書いたのだが、その年はずっと小説を書いていて、この曲も「ホリデイズ」のBGMを想像して書いた。これ、使ってるキーボードが初代DX7というのが今思うと笑える。

ひとまず19日の日記に戻ると、今日はどういうわけか朝の6時台にすっきりと目が覚めて驚いた。

今日は4時に精神科の予約が入っているので相場は想定だけしておいて2時か3時ごろまでの予定で業務へ。今日は根性を見せられず、冷房で身体が冷えただけだった。っていうかツキがなかった。精神科は事前に電話で確認して4時10分に行ったにもかかわらず小一時間も待たされた。前回処方されたスタビライザーは副作用で飲めなかったということを告げると、医者ももう匙を投げる感じでとうとうヨガだのなんだのという代替療法とかを口にするまでになった。もう万策尽きたということなのか。

精神科から帰宅後、ようやく相場のトレードをちまちまと。それにしても最近はあまりにもちまちまとし過ぎている。一体どうしたのか。あまりにもちびちびとやっているので、思い切ったリスクが取れなくなっている。これはちょっとどこかのタイミングで無謀なことをやらねばならないようだ。

涼しかった昨日とは打って変わって、今日はまた暑さが戻った。スーパーに買い物に行ったときに見た路傍の温度計は32度になっていたが、もっと暑いように感じた。しかし日が落ちると外は涼しくなる。

ところでまた記憶の話に戻ると、58年分の記憶をびっしりと覚えていてどれもが自在に引き出せるのであれば、さぞかし退屈しないだろうなあと思う。そういう意味では記憶というものはアナログに対するデジタルみたいに、マスキングされて忘れている部分がかなりあるような気はする。つまり記憶というのは隙がなくみっしりとあるのではなく、櫛みたいに隙だらけになっているような気が非常にする。何かで人間は記憶の重要度によって選別して覚えるというようなことを読んだ覚えがあり、つまり記憶にはプライオリティがあって重要なものだけを覚えている、ということらしい。ということはある意味、僕の人生はスカスカなわけである。しかしながら、もし忘れることが出来ないのであれば人間なんて一歩も前に進めなくなるのでは、とも思う。

おっと、そういえば今日は芥川賞と直木賞の発表があって、佐藤正午が遅ればせながらという感じで直木賞を受賞。まったくもっていまさらという感じはあるが、それだったら「鳩の撃退法」で受賞するべきだったんじゃないかな、と個人的には思う。

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