攪拌、および沈殿

たった今シャワーを浴びて、現実に戻ってきたところだ。

さっきまで、正確には10時半ごろ、ガルシア=マルケスの長編「落葉」を読み終えて解説を読んでいる途中で急に眠くなり、あまりに眠いので寝たら寝たでいいや、とソファの上で目をつむったら、寝たり覚めたりを繰り返し、ふと目を開けて時計を見ると日付がちょうど変わったところだったので、ようやく身体を起こした。眠ったり目が覚めたりを繰り返しているうちに、自分自身がだんだんぼやけてきて、そのうちすべてが曖昧になってきて、ようやっと身を起こしたときには、これまでのありとあらゆることがすべて夢だったような気がした。中国の古い話、紅楼夢だっけ、あんな感じ。まあ無理もない。昨日の今日で、僕は世界でももっとも疲れている人間のひとりだったのだから、と自分に対して憐れみの言葉をかけたくなる。

この日記のややこしいところは、いつも日付が変わってから書いているので、日記における「今日」という日がいつも日付のひとつ前の日だということだ。まあそれはいいとして、どうも昨日を境に僕は本格的な(深刻な、と言ってもいい)病人になってしまったのだ、という感覚が朝起きたときからあり、病気=体調が悪い、ということが脳のどこかに刷り込まれてしまって、自分の体調に関してちょっと神経質になってしまって、無意識のうちに常に自分の体調を監視してしまっている。ちょっとすっきりしないと、俺は今ダルいのだろうか、などとすぐ思ってしまう。朝はそれほどでもなかったので、一応業務に出かける。で、病人なのだから無理しない、ということで1時半には切り上げてしまう。手帳を見て、初めて今日(20日)が祝日であることを知る。店を出て歩き始めると、ちょっと疲れた感覚があり、また、俺は今ダルいのだろうか、と自問自答する。それを延々と繰り返しながら家路に就き、帰宅したころにはすっかり疲れていた。当たり前である。僕は癌という大病を患っているのだ、だから疲れるのだ、と思い込んでいるのだから。さっきから頭痛が取れないが、それも癌のせいだろうか。こんな風だから疲れるのだ。パンを少々食べて、病人なのだからソファに横になる。実際、疲れている。頭痛を取るためにロキソニンを飲み、手が痺れてきたので頓服のセパゾンを飲む。少し寝よう、僕は寝た方がいいのだ、何しろ病人なのだから、と毛布をかけて目をつむったらあっという間に眠った。2時間後に目を覚ますとホントにダルかった。なんてこった。寝るんじゃなかった。ああやっぱり俺は体調が悪いのだ、だから身を起こすのも億劫なぐらいダルいのだ、と思う。などとうだうだしているうちに便意を催し、トイレに行って用を足すと少し楽になった。人間なんて案外そんなもんだ。そういえば今日は恐らく明け方、4回ぐらいトイレに目が覚めたことを思い出す。あれは一体なんだったんだろう。ともあれ起きてネットなどをし、夕食を食べてお茶を飲みながら少しばかり勇気を出してウィキペディアで「悪性リンパ腫」を調べてみた。最初に、リンパ腫には良性はなく、すなわちリンパ腫というのはすべて悪性である、とあって、ちょっと肩透かしを食らったような気がした。昨日の僕の、「良性である可能性はあるのか?」という医者への質問はまったくの愚問であったわけだ。まったくもって道化だ。いろいろ読むと、大まかに言って悪性リンパ腫には2種類あり、ひとつは日本人に圧倒的に多く、もうひとつは欧米人に多い。で、日本人に多い方は寛解率、つまり治る確率は95%、と書いてあった。で、もうひとつの種類は、日本人では10%ぐらいで、こちらは19世紀の前半に発見されたものであることは分かったが、前述のものと比べて圧倒的に記述が少なく、あまりにも情報が少ないのでよく分からない。ともあれ、昨日医者がタチの悪いものもあるので、と言っていたのはこっちの方なのだな、となんとなく分かった。日本人に多い方のリンパ腫は、治療法が詳しく書いてあり、最近作られた遺伝子を組み替えた(ヒト・キメラ)薬とかもあり、いろんな薬を組み合わせて使うと、前述の寛解率95%となるようだ。つまり、昨日僕が思っていたように今週の組織検査よりも癌の進行度を調べる来週の検査の方が重要なのではなく、組織検査でどの種類のリンパ腫なのかの方がずっと重要であることが分かった。何しろ、日本人に圧倒的に多い方のリンパ腫は、進行度はほとんど重要でない、と書いてある。まあそんなわけでそっちの方であることを祈りたいところだが、結局のところはどちらかであり、検査通りの進行度であり、それに沿った手順通りに治療を進めるしかない。要するになるようにしかならないし、それを受け入れていくしかない。

というようなことを母親に電話して説明し、それからiPhoneでI泉さんに電話して話し、それから僕はもう読み終わりかけているガルシア=マルケスを読み始めたのだった。僕はガルシア=マルケスという作家が非常に好きなのだが、どうも彼の文章は読みやすいとは言えない。特に難解な表現をしているわけではないのだが、恐らくイメージが奔放すぎて、すぐには頭に入らないのだ。だから、同じラテン・アメリカの作家でも、バルガス=リョサの方が文章としては読みやすい。ともあれ、この「落葉」はその後傑作「百年の孤独」に繋がる、架空の土地マコンドを舞台にした最初の小説なのだった。そのマコンドにふらりとやってきて住みついた医者であるらしい男の奇妙な生き方と、首を吊って自殺した彼の葬儀の話だ。彼が長年住みついた家の家族のひとりひとりの独白の形で物語は進んでいく。「百年の孤独」のような圧倒的なカタルシスはないが、物語が進むに連れてマコンドという土地が荒廃していくさまを、パッチワークのように描いていく。ひとりひとりの独白が、それぞれある種の伏線のように絡み合ってひとりの男と街を浮かび上がらせる手法はいかにもガルシア=マルケスらしい。

と、また長い日記になってしまった。当分こんな感じになるかも知れない。

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