怒りを捨てよ

11月26日、木曜日。

かつて用賀に住んでいたころ、駅から15分ほど歩く道すがら、途中の表札に「捨男」という名前を見つけて気になったことがあった。今になってググると酷い名前をつけるという意見が目に入るが、当時はいい名前だなと思った。捨てる男。いらないものは捨てられる男になりたいものだ。

夜、フジテレビオンデマンドと電話で大喧嘩をした。詳しく書くと長くなるので詳細は省くけれど、要は理不尽なことにカチンと来たのである。人間怒るとアドレナリンが出て頭の回転が速くなり饒舌になる。そんなわけで久々に激怒した僕は電話に向かって怒鳴り散らした。もちろん、僕が怒るにはそれなりの理由があるのだけれど、電話を切ったあとでひたすら怒ってしまった自分に自己嫌悪を覚えた。反省することしきり。

怒って得することなどない。正確に言えば思い出すと一度ぐらいは怒って得したことはあるのだけれど(これも詳細略)、結局はそんなものだ。それにしたって怒ったから得したというわけでもなく、別に怒らなくても理詰めで解決できた話だった。

ここ10年ばかりの僕の失敗の数々は、すべて怒ったり感情を制御できなかったりしたことに起因している。どうして人間は怒るのか、何故カチンと来てしまうのか、とひたすら考える。

父は晩年、母に対して80過ぎたら怒るな、と言っていたらしい。80にならなくても出来ることなら怒りたくない。怒りという感情を捨ててしまいたい。少なくとも制御できるようになりたい。だが感情というもの、リアルタイムで制御するのは本当に難しい。一体どうしたらカチンと来たところで自分の気持ちを抑え込むことができるのだろうか。

何故人間は怒るのか。例えば、「下町ロケット」みたいな分かりやすいドラマで分かりやすい敵役が露骨に嫌味な言葉を発すると、見ている側は本能的にちょっとした怒りの萌芽を抱える。それがやがて溜飲を下げる要因となる。大概のドラマはそういう構造になっている。カタルシスのための仕掛けのようなものだ。ドラマや映画、小説の中では怒りはカタルシス、爽快感を得るために存在する。

しかし、現実の生活に於いて、怒りは必要なのだろうか。怒りで解決することなど果たしてあるのだろうか。たぶんない。それは恐らく、怒りじゃなくても解決できるものなのだ。怒りで解決したものはきっと後味が悪い。でも僕らは怒る。少なくともむっとするぐらいのことはこの先も無数にある。怒らない人間というのは、どこか感情が欠落した病的な存在なのかもしれない。

当たり前のことなのだが、怒りを覚えるのはしょうがない。ただ怒りに振り回されてはならない、ということだ。まあそれがなかなかできないから苦労しているわけだけれど。

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朝、恋する夢を見た。夢の中で一人の女性が僕に盛んにかまってくれて、僕はその女性に恋心を抱くのだった。一度目が覚めたが夢の続きが見たくて二度寝した。お蔭で起きたら10時25分、8時間ぐらい寝た。不思議なことに夢の中で恋する女性にはいつも顔がない。ということは、恋することに顔は必要ないということなのだろうか。今日の夢では名前はあった。確か「ユミコ」という名前だった。こういう夢を見るといつも思うのは、どうしたら夢の続きが見れるのだろうかということだ。ドラマの続きを見るように、また夢の続きを意図的に見ることができたら楽しいのに。まあたぶん、そんなことができたら延々と寝続けて夢を見続けたいと思ってしまうだろう。それはもしかしたら現実を捨てるということかもしれない。

要するに、そんな風に人間は捨てることができないということ。

それにしても寒くなった。

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