急転

田舎の公共施設でこれを書いている。3日前の火曜日、父が病院に担ぎ込まれ、それ以来田舎に帰っている。

火曜の昼前、取り乱した母親から電話があり、父がもう駄目なので帰って来いということだった。最悪の事態が突然やって来た。バッグに黒いスーツを詰める僕の手はぶるぶると震えた。新幹線の時間まで2時間ほどあったので、駅雨の喫茶店で昼食を摂り、それから母に電話をすると、父は脳死状態にあると告げられた。そこでようやく僕の震えは止まった。

田舎の最寄駅に着いたのは火曜の5時過ぎだった。仙台から駆けつけた弟が車で迎えに来て、病院に着くと父はまだ生きていた。人工呼吸器に繋がれて。ときおり瞼や口が動き、僅かながらこの時点ではまだ自発呼吸もあり、もしかしたら意識が戻るのでは、という思いがよぎったりした。が、実質上の父という人格は既に死んでおり、ただ人口呼吸器と点滴で生存活動が続いているというだけの状態だった。2日目からは自発呼吸もなくなった。日本では尊厳死は認められていないらしく、後は父の心臓が停まるのをただ僕らは待っている状態である。それがいつになるか、医者にも分からないということだ。

父は干し柿を喉に詰まらせ、窒息状態になった。10分以上脳に血液が行かないと、人間は脳死状態になるらしい。診断名は虚血性脳症。とにかく父の意識が戻ることはもうない。母はコタツの上に干し柿を置いておいたことを盛んに悔いているけれど、直接の死因はともかく、医者の話によると原因は肺気腫によるタバコ肺であって、吐き出すことが出来ないのもそのせいであり、要するにいずれはなんらかの形でこうなった、ということだ。肺気腫が進んでいるにも関わらず父は煙草を吸い続け、結局はそれが原因で実質的に死んだ、ということになる。

昨日までの3日間は怒涛のように過ぎた。何がなんだかよく分からないうちに、現実は否応なしに押し寄せてくる。僕らは無我夢中でそれに身を委ねるしかない。昨日までは母が病室に2晩続けてほぼ寝ずに泊まり、日中は交代で病室に付き添った。この調子では母の身体がもつかどうか昨日は凄く心配していたのだが、医者からもずっと付き添っていなくてもいいと言われて今日からは病院に詰めるということはしていない。何か変化があったら病院から連絡が来ることになっている。父がいつまでもつのかは個人差があって分からないので、来月に控えた田舎への引越しのタイミングに頭を悩ませている。いつまでこちらに留まるかも分からない。まだマンションに戻る気にはなれないが、引越しの準備もしなければならないし、病院や医者にも行かなければならない。頭の痛いところ。どこかで割り切るしかない。

葬儀の話は叔父に任せてある。喪主は僕だが、いまだに話を聞いても何をどうすればいいのか、具体的なことは何一つ分からない。昨日までの3日間でこの30年来ほぼ顔を合わせたことのなかった親戚の叔父叔母たちと会い、話をした。今日は母の友人たち、それに向かいの住人と話をした。考えてみればこの数年、こんな風にいろんな人と会って話をするという機会すら稀だった。それでなくてもこの1ヶ月来、極度の不安に陥り精神が脆弱になっている僕のことである、誰かと話をするたびに全力で頑張らないと出来ない。なので、昨日までの3日間は無我夢中でテンパって気を張っていたので、今日は疲れ果てている。こういう事態になると、いろんな人がいざとなると助けてくれることが改めて分かる。それは本当に有難く、それがないとどうしたらいいのか皆目見当もつかないことばかりなのだけれど、それにどう報いたらいいのか考えると気が遠くなる。お陰で、一人で何もしていないと不安で気が滅入る。何をしたらいいのか分からなくなる。いざ田舎に帰ってみると、右も左も、何もかも分からないことだらけなのだ。

火曜と水曜は病院からの帰り道は物凄い吹雪だった。運転するのも必死である。今は山形の冬の厳しさを改めて体験している最中でもある。散々悩んできた、田舎に帰るかどうかという問題を、現実はぐうの音も出ないほど強引な力技で僕に回答してきた。すべてがよく分からないまま転がっていく。僕らに出来るのはそれに身を任せることだけだ。

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