Something real

9月22日、日曜日。

なんだかいろんなことがリアルじゃないような気がする。結局のところ、ネット上にあるものはすべて幻影に過ぎないんじゃないかとすら思える。ウディ・アレンが言うように、世界のすべてはどこかの犬の夢なんじゃないかというように。言葉はどこまでリアルなんだろうか? 言葉は言葉に過ぎないんじゃないだろうか。

例えば、ネットでアマゾンに何かを注文する。それが自分の元に届いて初めてリアルになる。もし届かなかったら、注文したこと自体がリアルじゃなくなる。

今の自分にとって、毎日特養に行って母の顔を見る、そのことだけがリアルなんじゃないだろうか。そんなことを考えた。

すべてが上手くいくなんてことは果たしてあるんだろうか。毎朝、仏壇の父に必要最低限のことだけお願いする。とはいうものの、それでもそれなりに数がある。おまけに最近お願いがひとつ増えた。最後に鹿島アントラーズの優勝を付け足した。それからろうそくの火を手で消す。それが一発で消えればああ父に願いが伝わったんだなと思う。だが、一回で消えなかったときは、もしかしたらアントラーズは優勝できないのではないか、とか考える。確かに馬鹿げている。が、実際先日鹿島はACLで敗退してしまった。そのときの朝にろうそくの火が一回で消えたのかどうかは覚えていない。いずれにしろ、願望と現実の境目はそんな風に危ういところをうろうろするものなのかもしれない。

ここにひとつリアルなものがある。書斎の机の左側、窓際に置いてあるもうひとつの机周りが昨日までとは一変して尋常じゃなく綺麗になっている。今日片付けたからだ。やたらと乗っかっていたものは、100円ショップからかごを3つ買ってきてその中に入れて机の下に置いた。入れてみてからまた考えて、もう一度100円ショップに行ってかごの蓋を買ってきた。これで見た目は完璧に片付いた。昨日一日かけて書斎にある応接テーブルの上も片付けたし、台所も片付けた。ごちゃごちゃになっていた流しの右側を片付けて、100円ショップで買ってきたランチョンマットを敷いたらびっくりするほど綺麗になった。書斎の応接テーブルの上でひとつだけ浮いていた、僕が子供のころに使っていた蛍光灯(シールとかが貼ってある)を二階の自室に持って行って、代わりに昔青山の骨董屋で買ったデスクライトを持ってきて置いた。

これは確かにリアルだし現実だ。だがこのなんとなく感じる居心地の悪さはなんだろう。こうしてPCに向かっていて、ふと左側を見ると見たこともないくらい(当たり前だ)綺麗になっている。ところがそんなものを見たことがないのだから慣れていない。だからなんとなく落ち着かない。でもそのうち慣れて、それが当たり前になっていくんだろう。つまり、そうやって初めてリアルになるんじゃないだろうか。

例えば音楽はどうなんだろう? CDで聴くのも、ネット上のストリーミングで聴くのも、聴こえてくるのは同じ音で何も違わない。確かにプチプチノイズが出るアナログのレコードだったらちょっと違うかもしれないけど、YouTube上にはアナログの音源を再生したものもある。

映像もそうだ。DVDで再生する映像もネット上で再生する映像も、モニターさえ変わらなければ同じだ。映画やドラマの内容が変わるわけでもない。

それをいうなら言葉も同じだ。紙の本で読むものだけがリアルで、PCやスマホといった端末上に表示された言葉が別物というわけではない。そこには同じ物語がある。

じゃあすべてはリアルなんだろうか? テレビで流れるものはすべてリアルなんだろうか? 見たことも会ったこともないあなたが存在しているということもリアルなんだろうか?

願望はいつ、どんな風にかなうのだろうか? それとも願望はいつまでも願望のままであり続けるのだろうか? それはいつかリアルになるんだろうか?

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