Scenery

5月20日、月曜日。

おおまかに言えば今日はさして書くことがない。もちろん細かく書けばいくらでも書けるが、退屈な日常のディテイルを書くことに何の意味があるだろう?

腰痛は昨日より若干ましになった。少なくとも動くたびに「うっ」とか言わずには済むようになった。週明けの月曜日、ごみ当番で自分的には早起きも、一度目のアラームで目が覚めたにもかかわらずいつの間にか寝ていて二度目のアラームでようやく起きた。10時ごろにごみ置き場を見に行くと、驚いたことに数年ぶりに回収されずに残っているごみがあった(それもごみ置き場から目と鼻の先の家だった)。留守のようだったので玄関先にごみを置いてくる。何故か多少の罪悪感を覚える。なんでだろう。

今日は暑くて、午後から窓を全開にしていた。一応それなりに相場のトレードをしたことはしたのだが、週明けというのはどうしてもモチベーションを保つのに苦労する。油断するとモチベーションはあっという間に消え失せてしまう。何と入れ替わるのか、そこがよく分からない。何にも入れ替わっておらず、ただなくなるだけ。一旦なくなったモチベーションを再び取り戻すのには相当苦労する。それでも何もしないと気が滅入ってしまうという理由で再び相場のポジションを持つ。改めて、呆れるほど勇気のない自分に気づく。

午後、宅配便の集配がやってきて、買ってすぐに壊れたパソコンと下取りに出すノートパソコンを持って行った。なんていうか、これでひとまずパソコン騒動の第一章は終わり、という感じ。それが何か物足りない感じを覚えてしまう。つまり、ときにはめんどくさい方が気が紛れるということもあるということだ。

今日は気分の浮き沈みがあった。夜になってちょっと抑うつ状態になりかける。何かをするしかないので珈琲の豆を煎る。気がつくと中学の同窓会が二週間後に迫っている。それはもうすっかり気が滅入る材料になっている。正直誰とも話すことがない。それに大概の人は新聞の事件欄で僕の名前を見たことだろう。だがしかし、誰もそれには触れないだろう。なんてめんどくさいんだ。

僕が誰かのことを忘れたころに、誰かが僕のことを思い出すのだろう。そして、あなたはこれを読んでいるのだろう。

人生が呆気ないとは思わない。だが、ウディ・アレンが言うように、現実はすべて実は存在していなくてどこかの犬が見ている夢かもしれない。だとしたら、なんて幸せな犬だろう。

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