time is money vol.12

「見える日と見えない日」

日記のような、そうでないような...

99年9月9日(木)

以前、地元の小さな店で、デキのいいハニーフラッシュを粘って打って毎日のようにある程度出していたことがあった。その店は回転数のカウンタなんぞはもちろん無いが、大当たり回数だけ表示されるようになっていて、数人の年寄りの常連がメインのその店では僕のように終日粘って打つ人間などいるわけも無く、一日打つというだけで当たりのカウンタはそれなりに回数を重ねて行く。それがやたらと出しているように映ったらしく、終いには後ろで見学するおばさんとかが現れ始めた。パチンコ屋の店員というのは、ただのパチンコ好きであったりすることが多く、オカルトな人も多いと聞くが、ある日後ろでその店員と見学しているおばさんの会話が聞こえてきた。
「すごいわねえ」
とおばさんが言うと、その店員が訳知り顔で、
「どの台が出るか見るだけでわかっちゃうんだよ」
...。そんなわきゃねーだろ!

一体全体、僕はどの程度釘が読めるのだろうか?ときおり自問してみたりもするのだが、そんなもの他人と競い合う気も無いし、そんな力があるとは到底思えないので、結局は意味を為さない。要は自分にとって必要十分か、もしくはある程度自信を持てるぐらい読めればいいのである。寸分違わず0コンマ何ミリというところまで読めて、しかもどんな初めて見る台であっても正確に回転率を言い当てる、などと言うことは、台にネカセやデキ(一日の間の状態の変化も含めて)がある以上不可能なわけで、それができるとかパーフェクトだと言い切ることなど所詮眉唾でしかない。自分にとって結果的にパーフェクトであればいいのだ。では自分にとって十分な程度の釘読みはどの程度かと言うと、要するに少なくとも釘を叩いている人間の意図が分かる程度である。つまり、多少店を替わろうが、常に店の釘を叩いている人間と同じぐらいの読みができればいいわけだ。もちろん、理想を言えばそれを超える程度が望ましいのだけれど。こう書くとものすごいことのように思えるが、今の世の中、昨日今日覚えた半分素人の店長が叩いていたりもするわけで、何も昔の漫画に出てくるような天才職人の如き釘師が叩いていたりするわけでは無い(そう言う店もあるにはあるんだろうけど)。そう考えると、もし自分が店に勤めていて釘を叩く立場になったとしたら、大抵の人よりは上手く叩ける自信のある人は結構いるはずである。どちらの立場にしても、そうそう神様のような人は滅多にいるものではないのである。そう言えば、関係無いが、昔とんねるずの番組で武豊がパドックを見て予想して全然当たらなかったことがあった。パドックとか調教見たってわかりませんよと彼も言っていたし、ある調教師もそう言っていた。あれってちょっとほっとするなあ。

前にもこの日記にちょろっと書いた覚えがあるが、少なくとも僕の場合は体調とか精神状態によって、釘が見える日と見えない日がある。まあ、その程度であるし、そのこと自体も気のせいだったりもするわけで、所詮いい加減である。例えば、昨日は見えない日だった。結局多少アイたと思った海物語に座ったのだが、自信が無い分、思ったほど回ってくれないので8千円ほどで捨ててしまった。それで半チクのデラマイッタ(今ごろこんなもん打つかね...)を打って一度も当たらず大敗してしまったのだが、今日店に行ってみると、その海物語は昨日の出玉が店で2番目で4万発近かった。結果的には正解だったのかも知れないが、とりあえず自分が打っている間に回ってくれなければ僕には打てない。で、今日は釘が見えていた。打ちながら思ったのだが、結局は昨日も同じ程度見えていたのではないか、と。それで昨日はアケてなくて、今日アケたのではないか、と。そう考えると、昨日は明らかに打つべき台が見当たらなくて、釘が見えていないと自信を失ってしまったのだが、結局は打つべき日では無かったのかもしれない。そういう意味では見えてない、と感ずるような日は要は打つべき台が無い、と素直に受け止めるべきであって、僕は多分まだまだそういう自信を持てるほどの力量が無いのである。あるホームページを見ていて、結局人間は自分の見える範囲しか見えない、という言葉があったが、至言である。所詮体調だなんだと言っても、見えているものは同じ程度なのだ。要は自信が持てるか否か。自分なりに正確な判断ができる精神状態か否か。何故なら、今日も睡眠不足と胃酸過多であまりにも体調が悪く、途中でリタイアしてしまったのである。

本日の収支 +42,000

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