1984

「1984」

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1984年、僕は25歳で、空っぽだった。僕は本当に、純粋に空っぽだった。前の年に僕の人生最大と思われる大失恋をして、僕はすっかり人間不信に陥り、すっかりうつろになっていた。実際に僕の体重はそれまで60キロあったのが一時期には53キロまで痩せた。僕はいつも上の空で、足はいつも地面から5cmばかり宙に浮いていた。僕は僕の核心をなすものをすっぽりと失ってしまったのだ、と思っていた。実際、僕は抜け殻も同然だった。1年経っても僕は相変わらずうつろな抜け殻だったが、体重は戻り、表面上はなんとなく世の中に歩調を合わせるぐらいは出来る程度にはなっていた。

オリコンに入社して2年目、僕の在籍する営業部はいわゆる問題児の吹き溜まりみたいなセクションだった。仕事をする気がある人間などただの一人もいなかった。野心を持っている人間など一人もおらず、怠惰なことにかけては右に出る者はいない、というような人間が見事に揃っていた。みんな、「直行」と「直帰」が得意技だった。外から電話番の女の子に電話をして、今日は直帰します、と言うときには皆揃って何故か口元に笑みを浮かべているのだった。まるで特権階級がその特権を使って優越感に浸るみたいに、僕らはにやにやしながら朝は「直行します」という電話を入れ、帰りは「直帰します」という電話を入れた。そして、会社の外では麻薬の売人みたいに街を徘徊して、ただひたすら時間を潰していた。要するに僕らはダメ人間だった。念入りに、と言ってもいいぐらいにダメ人間だった。実際、僕は何もかもどうでもいいような気がしていた。つまり、投げやりだった。そのころにオリンピックに「投げやり」という種目があったら、結構いいところまで行ったと思う。

僕らの楽しみは、月曜日の午前中の会議と、出張だった。それらは僕らにとって、娯楽であり、レジャーそのものであった。月曜日の午前、僕らは皆浮き浮きとしてそろそろ行きますか、と誰からともなく言い出して皆で連れ立って六本木通りの一本裏通りの喫茶店に向かうのだった。要するに僕らの言う「会議」とは、会社の経費で喫茶店のモーニングを頼んでのんびりと一服する時間に他ならなかった。最初の5分か10分ぐらいは一応儀礼的に仕事の話をして、あとは皆思い思いにモーニングを食べながらスポーツ新聞を読んだり、談笑したり、ただぼんやりしていたりした。僕らの一週間は公然たる息抜きから始まるのだ。出張は僕らにとって旅行そのものだ。僕らはそれぞれ担当地域というものがあって、持ち回りで地方に出張した。自分の車でドライブ気分で行く者もいたし、事前に綿密に調べてわざわざ温泉を泊まり歩く者もいた。出張と言っても仕事はレコード店に顔を出して売り掛け金を集金したりする程度、実働時間はほんの数時間、あとは会社の金を使って旅行しているようなものだった。僕も温泉を泊まり歩いた。秋田に出張したとき、シーズンオフの田沢湖のプリンスホテルは客が僕一人しかいなく、部屋にわざわざマネージャーが挨拶に来た。翌朝、朝食のために食堂に行くと、だだっ広い食堂には客は僕一人、壁際に社員全員が勢ぞろいしていた。居心地がいいわけがない。しかしながら、食堂の窓に映る朝の田沢湖には湖面に雲が浮いていて、それは素晴らしい眺めだった。自分の目の高さに雲が浮いているというのは、なんとも不思議な光景だった。

別に出張や会議じゃなくても、そこはダメ人間の集まり、社内にいる普段からまったくもってダメな仕事ぶり、どこからどこまでが私語でどこからが仕事の話なのかさっぱり分からず、皆一様にテレテレしていた。僕はヒマを持て余して他のセクションに出向いては組合を作ろうと騒いだりした。昼休みともなるともう出鱈目、セクションの長である部長を筆頭に皆で芋洗い坂のゲーム喫茶に行き、非合法なポーカーゲームをやっていた。サラ金から金を借りることを覚えたのもこのころだし、仕事中に社長室でみんなで裏ビデオを鑑賞したりもした。経理のゴトウくんという30絡みのオタクな男がまだ童貞だということが判明し、部長がソープランドに連れて行くから明日金を持ってこいと真顔で言っていた。結局ゴトウくんは翌日金を持ってこなかった。ちなみにこの経理のゴトウくんというのは我々営業部を持ってしてもかなわない変人・ダメ人間で、例えば松田聖子が会社に挨拶に来てトイレに行ったりすると、直後にダッシュで女子トイレに駆け込んで陰毛のひとつでも浮かんでないか探すような人間だった。ゴトウくんは結局、翌年入った新卒の女子社員に入れあげ、彼女が数ヶ月で退社するという段になってそれが嫌だということで会社の経理書類を持って自分のアパートに立て篭もってクビになった。

うむ、しかし書いていて我ながら情けなくなるね。この年の話にオチはない。ただひたすらダメ人間として投げやりに生きていただけだ。モラトリアムというよりは人生の垂れ流し、無駄遣いである。僕はただ行き当たりばったりに吠えた。血液型の話で女子社員と盛り上がっていた先輩社員を怒鳴りつけたり、朝礼で自慢げに会社を禁煙にすると宣言した社長(小池總行)に、その前に給料上げてくださいよ、と皆の前で大声で叫んだりした。あ、前述のように社内で労働組合を作るぞと騒いでいたら社長から僕をクビにしろという指令が専務(社長の弟)に出され、結局僕は社長に呼び出されて2時間サシで話をした。もちろん僕はシラを切り通した。どういうわけか翌年一律で全員の給料が25000円上がった。僕はこのころはまだタマにみんなで集まってバンドのライブをやったりしていて、何故か知らないけど会社にファンレターが届いたりした。ヤマザキが毎日演奏していた恵比寿の駅前にあったジャズクラブにゲストで出演したりもした。僕はまったくもって女性不信に陥っていたので、誰か女の子と付き合うなんてこれっぽっちも考えていなかったのだが、今考えてみるとなんだか知らないけどモテていた。しかし、この年の僕は日本を代表する朴念仁だった。

誰の人生にもダメなときというものはあると思う。そういう意味では、1984年は僕の人生を代表するダメな年だった。何がダメといって、それはまったくもって意図的にダメな生き方をしていたからである。よりによって、人間の人格が固まると言われる25歳のときに、僕はもっともダメな人間だったのだ。合掌。

written on 24th, jun, 2009

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